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〔今回のテーマ〕黙阿弥と歌舞伎 中編 慶長八年(一六〇三)の出雲の阿国以来、四百年の歴史をもつ歌舞伎。江戸時代を通じて常に文化の中心であった芝居を通じて現代の文化を考える。
6)承 前. 江戸が東京となり、歌舞伎の世界にも文明開化、御一新の波は容赦なく押し寄せた。江戸の二大悪所といえば吉原と芝居。吉原は明治五年の解放以来まったくの別物に移っていったが、芝居の方は散切物や活歴が登場し何とか命脈を保つことになる。
「半七捕物帖」で知られる岡本綺堂(一八七二〜一九三九)は、随筆集『江戸のことば』(河出文庫)で、江戸時代に一般の江戸人は「芝居」のことを「シバヤ」と言ったと書いている。著者が二十歳の頃と云うから明治二十年代になっても東京で「シバイ」と言うと「お国はどこか」と訊かれたものだという。また、今日では演劇の台本のことを「脚本」あるいは「戯曲」というが、これも黙阿弥の時代には一般に「正本」と呼んでおり、明治二十年前後に「脚本」と言われるようになり、「戯曲」という言葉も明治の末頃から使われ出したという。
7). 明治十一年六月、守田勘弥により、わが国最初のガス灯の灯った洋風劇場・新富座が開場する。この頃から欧化主義に伴った演劇改良運動が盛んになりだした。この運動は、今日からみれば鹿鳴館同様、西欧演劇一辺倒で日本歌舞伎の特色を無視した急進的な改革であった、といえるが、当時は洋行帰りの政界学界人、ことに与田学海や福地桜痴などが主導し、従来の稗史的なものをしりぞけ、学問的な時代考証に基づいた時代劇(活歴)を生み出した。やがて明治政府の肝煎りで成立した演劇改良会を経て、明治二十年に井上馨外相邸で開催された明治天皇の天覧劇を頂点として、明治二十二年の歌舞伎座開場の頃まで吹き荒れた。それも新富座の守田勘弥だけでなく、当代随一の名優・九代目市川団十郎までが自ら求古会なる会を組織し、これに乗っかったことから、歌舞伎界全体を巻き込み、とりわけ晩年の黙阿弥を翻弄することになる。
8). 演劇改良運動から黙阿弥を擁護した坪内逍遙(一八五九〜一九三五)は、日本の歌舞伎が西洋演劇にはない特色があることに気づいていた。彼は、これを「歌舞伎キマイラ説」という比喩で説明した。キマイラとは、獅子の頭、山羊の胴体、竜の尻尾をもつギリシア神話に登場する怪物。歌舞伎の舞踊を頭、科白を胴体、音楽を尻尾に喩えた。
つまり、舞踊・演劇(科白劇)・音楽(浄瑠璃)という三要素が一体となった歌舞伎は、西欧の古典主義演劇の概念からみると怪物であるということである。もちろん今日ではミュージカルやオペラだけでなく、これらの要素が一体となった演劇は普通になったが、西欧の演劇が近代以後、科白劇と歌劇、舞踊劇(バレエ)と分化していたのをワグナーが提唱した「総合芸術」のように総合する方向に向かったのに対し、歌舞伎はその当初から三要素が渾然一体となって「非分化」のまま現代に及んでいる点に大きな相違と特色を見ることができる。
河竹登志夫『憂世と浮世 世阿弥から黙阿弥へ』は、歌舞伎だけでなく、中世の能から近世の人形浄瑠璃、歌舞伎へと至る日本の伝統演劇の歴史を跡づけ、その底流に流れる日本人のもつ世界観、それはつまるところ無常観と思われるが、これが時代に従って憂世と浮世という相反する感じ方として現出した、と捉える日本の伝統演劇についての骨太の概説書となっている。
もとより人間の内側には、正邪、善悪、静動あるいは理性と情熱、健常と狂気などが渦巻いているが、著者によると「演劇は最も人間的な、実人生に最も密接した芸術」なるが故に、この人間が本来抱え込んでいる二面性・双極性が反映され、能と歌舞伎という対極的な演劇として日本の民族、風土、歴史の中で生まれたとする。それは、通時的には中世の憂世観に基づく能(世阿弥)から近松を経て浮世観に根ざす歌舞伎(黙阿弥)へと行きつくことになる。能と歌舞伎を日本の伝統演劇の両極に配することにより、同時に日本演劇の多様性を、その両極の間に分布するものとして位置付けることが可能となり、見晴らしの良い眺望を提供してくれる。
ことに著者の卓見は、日本演劇の双極をなす一方の能をギリシア古典悲劇を淵源とし十七世紀に完成をみるラシーヌなどの古典主義演劇に、他方、歌舞伎のもつ最大の特色「かぶき性」を「歪んだ真珠」を意味するバロックとして捉え直した点にある。かく世界に開いた上で著者は歌舞伎をシェイクスピアに接続する。思えば出雲の阿国が京都に姿を現したのが慶長八年(一六〇三)。その頃、海の向こうイギリスではシェイクスピアの時代、エリザベス朝演劇の全盛期であった。
浮世に根ざす刹那享楽の現世主義、生への執着。その代わり来世の救いのない、この世だけの世界。これが取りも直さず、後期江戸歌舞伎に典型的にみられる「かぶき性」にほかなりません。阿国の原初歌舞伎に胚胎したかぶき性の最も成熟した形、といえましょう。
9).明治十四年(一八八一)十一月、六十六歳になった黙阿弥は、新富座で散切白波物「島鵆月白波」を単独執筆、これを一世一代の書き納めとして引退を表明した。この時、「引汐」と題した摺物が親しかった人々の間に配られた。これには「…白波作者と言はれしも、素より智恵の浅瀬にして深き趣向のあらざれば、…茲らが汐の引時とて、引いはひしてまた元の、浪の素人に帰るになん」とあり、次の狂歌がある。
腸のなき愚かさに
直な道知らで幾年横に這ふ蟹 これだけみれば、彼が黙阿弥と名乗った心は明白なように思え、河竹登志夫の父で黙阿弥の養子となり家を継いだ河竹繁俊も『河竹黙阿弥』のなかで「黙阿弥という名は、…隠居してもとのもくあみになり、黙するという意味が含まれていた」とあっさりと記しているが、曾孫に当たる著者には、やはりこのままでは納得いきかねることであったのだろう。『黙阿弥』の著者河竹登志夫は、遺書類の中から発見した黙阿弥最晩年の自筆手記「著作大概」に記された「以来は何事にも口をださずにだまって居る心にて黙の字を用いたけれど又出勤することもあらば、元のもくあみとならんとの心なり」に注目し、決して黙阿弥が当代随一の狂言作家としての矜持を捨て去ることなく、徳川以来、観客の支持に裏打ちされた自信と誇りと、したたかな気概さえ読みとれることができるとする。
ところで、この狂歌、「腸のなき」は「無腸」であり、これは蟹の異名であるから、横歩きしてきたと自らの生き様を蟹に喩えたものである。
ここで思い出されるのが、もう一人、自分を蟹に見立てた文人が京都にいたことである。『雨月物語』で知られる文人・上田秋成(一七三四〜一八〇九)その人である。秋成も、様々な理由からこの世を憂世と嘆じ、性、狷介偏屈気難しい人柄であったことはつとに有名であった。彼は自ら好んで「無腸」(蟹)という号を用いたことでも知られ、南禅寺近くの西福寺にある彼の墓も「上田無腸翁之墓」と刻まれている。彼も世間に入れられない自分を横に走る蟹と見なし、やはり次のような和歌を残している。 津の国の なにはにつけて
うとまるる 芦原蟹の横走る身は 黙阿弥自身が、この秋成の歌をどこまで意識して、自分の狂歌に詠んだのかどうかは分からないが、上方と江戸と離れていたとはいえ、黙阿弥のなかに秋成のことが響いていたように思われてならない。このことを指摘された方が、寡聞にして管見では見当らないので、あえてここで指摘しておきたい。
10). 河竹登志夫『黙阿弥』は、「黙阿弥のいない天覧劇」の章から幕が上がるが、前著が日本演劇史を世阿弥から黙阿弥として「阿弥」号にこだわったのに対し、本書では明治以後、演劇改良運動が盛り上がりをみせた黙阿弥の晩年の作品と心情、生き様に焦点をあわせ、「黙」の字の謎に迫った黙阿弥評伝の決定版である。
黙阿弥をやがて引退に至るほどの苦境にみちびくのは、散切物ではなく、政府の介入による芝居界の上流化と、史実尊重の新時代物ー活歴劇ーとであった。それらはやがて演劇改良運動という大きな潮流となって、明治二十年のあの展覧劇へと流れ下って行く。天保の改革や小團次の悲劇も大きな試煉ではあったが、江戸文化の中でのことだった。しかしこんどは、魚にとって棲む水の変質にひとしい。明治の水ーその源は西洋にあり、江戸文化そのものを否定するものだったからである。黙阿弥の受難の根元は、そこにあった。
先に掲げた岡本綺堂は「明治以後の黙阿弥翁」という一文を草し、「翁は当時に於て、彼の「野暮な屋敷の大小捨て」た江戸の侍と共に、その筆を捨つべき時であることを感じたかも知れなかった」とその心情を推量し、さらに「謹慎の二字を生涯の守りとしていた翁にあっては、おそらく周囲のものに対しても滅多に愚痴も不平も洩らさなかったであろう。しかしこれは多弁と沈黙とを以て決定せらるべき問題ではない。俎上の魚が叫ばぬというを以て、かれに不平が無いと認めるのは人間の手前勝手である。翁はおそらく叫ばなかったであろう。叫ばなかった所に、我々は無限の悲痛を感ずるのをとどめ得ないのである」と深い同情をこめた文章を書付けている。
しかし、多くの人の思惑とは別に時代は先へ先へと進んでいく。
歌舞伎は社会的地位を高めるのとひきかえに、庶民芸能としてのもって生まれたあくを抜かれ、きれいごと本位の芸術へと変質していくのである。
(園城寺執事 福家俊彦)
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