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〔今回のテーマ〕黙阿弥と歌舞伎 後編


慶長八年(一六〇三)の出雲の阿国以来、四百年の歴史をもつ歌舞伎。江戸時代を通じて常に文化の中心であった芝居を通じて現代の文化を考える。

小林 恭二
河竹登志夫
河竹登志夫
渡辺  保
『悪への招待状』
『憂世と浮世 世阿弥から黙阿弥へ』
『黙阿弥』
『『黙阿弥の明治維新』

11)承 前.
黙阿弥のモットーに「三つの親切」というのがある。「座元に親切、役者に親切、お客に親切」である。興行主の座元は儲かって、役者にはやる気を出してもらい、お客にもウケるという、現代の芸術家からみると、芸術はそんなものではない、と叱られそうなモットーである。とはいえ黙阿弥にしろ当時の劇作家たちは、自分たちを今日考えるような芸術家であるとは思ってもいなかったし、世間もそうであった。あくまで芝居を書く「職人」であった。どう職人であったかというと、橋本治『大江戸歌舞伎はこんなもの』にある通り「黙阿弥の作品はみんな退屈です。…戯曲台本を読めば、そういうことが分かります。しかし、これを一遍舞台にかけてみると事情は一変します。面白いんです」といったたぐいの職人だったことが分かる。

12).
ことに劇作家と役者の関係は、のっぴきならないもので、以下では黙阿弥と縁の深い三人の役者についてみておきたい。
 先ず最初は、当代の人気役者、四代目市川小団次(一八一二〜六六)。彼は黙阿弥を引き立て、その才能を開花させた大恩人である。黙阿弥三十九歳から五十一歳までの十三年間、二人はまさに一心同体、黄金コンビとして最も脂ののり切った時代を過ごした。
 ところが、慶応二年(一八六六)三月九日、幕府が「近年世話狂言人情をうがち過ぎ…以後は万事濃くなく、色気なども薄く」せよとの禁制を申し渡す事件が起る。これに小団次は、「人情をうつさねえ芝居なんてあるか」と大いに憤慨し、この事件の二ヶ月後の五月八日、突然死んでしまう。この死の衝撃は、黙阿弥の人生に少なからぬ影響を及ぼすことになる。直接の死因は、寒気による風邪をこじらしての肺炎であったと言われているが、事実はどうあれ黙阿弥自ら「全く病根は右の言い渡しにあり」と書いている通り小団次の死は、幕府という政治権力に対する憤死に他ならず、黙阿弥も「小団次を殺したのは幕府である」との憤怒の思いをかみしめることになる。
 
13).
次は、市川左団次(一八四二〜一九〇四)。彼は九代目市川団十郎(一八三八〜一九〇三)、五代目尾上菊五郎(一八四四〜一九〇三)と共に「団菊左」の一角を担った明治期を代表する名優である。しかし、若いときは不遇をかこち、養父となっていた小団次の死により一時は廃業寸前まで追い込まれる。この時、左団次若干二十五歳。この苦境から左団次を守り救ったのが黙阿弥であった。黙阿弥は左団次を自分の子として三年預かるといって廃業を押しとどめ、役者として大成するべく本人共々努力することになる。明治元年(一八八六)、市村座が左団次の役を黙阿弥の意志に反して変更した時には、左団次と共に退座している。もちろん左団次の才能を見込んでのことではあるが、大恩人小団次に対する黙阿弥の義理堅さと自らの進退を賭してまで断固として筋を通すキップのよさは、いかにも江戸っ子らしい。

14).
最後に三代目沢村田之助(一八四五〜七八)を忘れるわけにはいかない。彼は名優五代目沢村宗十郎の次男として生を受けた梨園の御曹司である。若干十六歳にして立女方の地位を獲得。華々しい活躍をしながら、人気絶頂の元治二年(一八六五)、舞台での事故で脱疽という業病にかかってしまう。その後の舞台人生は壮絶の一語に尽きる。慶応三年(一八六七)九月、横浜居留地の外科医ヘボンにより右足の膝下切断の手術を受ける。明治三年には左足まで失うも舞台に立ち続けた。しかし、明治五年正月、黙阿弥が田之助の身体にはめて書いた新作「国性爺姿写真鏡」を最後に舞台を退くことになる。二十八歳という若さであった。この頃には病状もさらに進んで、右手は手首から先、左手は小指だけで他の指が無いという、いわば胴だけの姿であったという。この芝居のなかで田之助が兄の訥升(後の名優四代目助高屋高助)を見送りながら、「これが見納めかと思いまわせばまわすほど、お名残惜しゅうございます」と引退の口上を兼ねたせりふをいうと、満員の場内はすすり泣きの声で溢れたという。明治十一年春、田之助はついに発狂、七月に亡くなった。享年三十四歳であった。

15).
様々な役者の生き様に接し、自らは「三つの親切」をモットーに生きた芝居の職人黙阿弥は、江戸幕府の崩壊から明治という新時代の到来を如何に生きようとしたのだろうか。
 渡辺保『黙阿弥の明治維新』は、こうした視点から黙阿弥にとっての明治維新の意味を問い、その全仕事を俎上に乗せ再点検することによって、もっぱら江戸の黙阿弥ばかりが評価されてきた従来の黙阿弥観に転換を迫る。

 黙阿弥は、明治を迎えて新しい時代に生きようと苦闘した。しかし、明治新政府も小団次を葬った江戸幕府と同様、黙阿弥を裏切ることになる。演劇改良会しかり。それは岡本綺堂が「明治十五、六年から二十四、五年に至る約十年間は、殆ど空前ともいうべき狂言作者迫害の時代であった。自然の結果として、その代表者たる黙阿弥翁は荊の冠を戴かねばならぬような破目に陥った。思えば実に涙である。翁は温厚の人であった、謹直の人であった。平生から絶えて他人と争うようなことの無かった人であった。随ってこの無道なる迫害に対しても、表面には曾て反抗の気勢を示さなかった。翁は魚のごとく黙して俎上に横たわっていた」という述懐の通りであろう。

 永井荷風『江戸芸術論』で「学海桜痴両居士が活歴劇流行の頃は唄鳴物並に床の浄瑠璃はしばしば無用のものとして退けられたり。彼らは江戸演劇を以て純粋の科白劇なりと思為したるが如し。然れどもこはいまだよく江戸演劇の性質を究めざる者の謬見なり」と明快に述べている。しかし、荷風は続けて「余は今日となりては江戸演劇を基礎としてこれが改造を企てんよりはむしろそは従来のままなる芝居として観ん事を欲せり」と述べ、「これがためには聊かの改造もかへって厭ふべき破壊となる」とした。
 著者は、黙阿弥の明治の苦闘を見ずに、江戸をそのまま残せという荷風に代表される黙阿弥観を批判する。

近代に出合い、生きた黙阿弥の営々たる苦闘を否定したのは、さきに演劇改良論者たちであり、のちに永井荷風であった。たしかに荷風は、黙阿弥は古いという世間のなかで黙阿弥を認めた数少ない文学者の一人であった。問題はその認め方にある。…荷風が愛したのは極端にいえば江戸の黙阿弥であって明治の黙阿弥ではなかった。
そして、本書における著者の卓見と結論は以下の通りである。
歌舞伎を将来の現代劇として改革しようとした最初の人間は、依田学海でも福地桜痴でも末松謙澄でもなく、黙阿弥だった。黙阿弥は歌舞伎の虚構の美しさを捨てて日々の現実生活のなかの真実を描こうとした。この百八十度の思想的転換こそいかなる演劇改良運動よりも重要であり、歌舞伎が現代劇として再生する大きな可能性を秘めていた。歌舞伎にとっても、新しい時代の演劇にとっても本質的な事件だったのである。にもかかわらずこの黙阿弥の試みは、当時は認められなかったし、いまも認められていない。演劇史の大きな誤りである。

黙阿弥にとって明治維新は近代の原点であると同時にその原点を大きく逸脱していく政治権力との戦いにほかならなかった。黙阿弥の一生を支配したのはこの怒りであった。…だからこそ黙阿弥の再検討が必要であり、ドラマの骨格、言葉の力を復活することが大事なのである。そのことがすなわち私たちを近代の原点へ、黙阿弥が求めた新しい時代の始まりへ連れ戻すだろうから。それでなければいつまでも私たちは歪んだ近代を受け継ぐ今日を生き続けなければならないし、黙阿弥その人もその作品も正当に評価されることがないからである。

16).
明治二十年(一八八七)三月、黙阿弥は四十年以上にわたって住み慣れた浅草正智院、寝釈迦堂そばの家から終の住処となる本所南二葉町(墨田区亀沢町)に引っ越した。
 黙阿弥は、生涯ほとんど江戸の外に出なかったが、七十六歳になった明治二十四年(一八九一)九月、長女の糸と弟子の其水をつれて、箱根七湯めぐりの旅に出る。黙阿弥にとって生涯ただ一度ののんびりとした旅であった。道中では弥次喜多にならって三人で狂歌を詠み狂言名題を作って遊ぶなど、その道行きは黙阿弥にとって冥途の土産となる思い出深いものであったであろう。二年後の明治二十六年(一八九三)正月二十二日、最後の狂言作者河竹黙阿弥は七十八歳の生涯を閉じた。
 坪内逍遙の推挙で糸女の養嗣子となった河竹繁俊氏によると、黙阿弥に逸事や珍談、奇行のたぐいはなかったが、何よりも動物を可愛がり、一時は家に十数匹の犬や猫がぞろぞろいたという。なかでも猫が大好きで、太郎という黒猫が死んだときには糸の狂歌を刻んだ碑が建てられた。二太という白犬は、黙阿弥が出勤するときには必ず楽屋口まで送ったという。

 また、黙阿弥は子年生まれだったので、鼠も可愛がった。猫にも鼠は友達なのだから追いかけてはいけないと言い聞かせていたそうで、猫の御飯の残りを鼠が食べていた。正月には鼠用の餅まで用意していたという。
 ぼくには、猫や鼠を愛する黙阿弥に黙阿弥という人の真実があったように思えてならない。
(園城寺執事 福家俊彦)






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