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〔今回のテーマ〕訳詩集(前編) 「ミラボー橋の下をセーヌ河が流れ、われ等の恋が流れる」。どこかで聞いた一節、遠い記憶がよみがえる。アポリネールにボードレール、彼らの詩を身近にした訳詩集の歴史を振り返る。
1). いま振り返ってみて、外国の詩との出会いはいつだったのだろう。はるかな記憶を掘り返すと、浮んでくるのは、ジャン・コクトー(一八八九〜一九六三)の有名な「耳」である。
私の耳は貝のから 海の響きをなつかしむ おそらく、ぼくが十五、六歳、映画ではニュー・シネマといわれた「俺たちに明日はない」や「卒業」、「イージー・ライダー」が流行り、小説ではサリ ンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』がバイブルであるかのように読まれていたころ。サルトルなどの実存思想も、その輝きを放っており、ぼくがはじめて思想的なものにふれたのは、「今日、ママンが死んだ」という書き出しで始まるアルベール・カミュ(一九一三〜六〇)の小説『異邦人』であった。 主人公ムルソーは、友人のトラブルに巻き込まれ、アルジェの灼熱の太陽のもと、殺人を犯してしまう。殺人罪で起訴され、裁判長から殺人の理由を聞かれて、彼が言ったセリフ「太陽のせいだ」は、欺瞞や偽善に満ちた社会に対する強烈な反逆の叫びとして、あまりにも有名である。 ついでに、もうひとつ思い出すのは、ロシアの詩人エセーニン(一八九五〜一九二五)である。なぜ、わが家に彼の詩集(おそらく内村剛介訳『エセーニン詩集』)があったのか、いまもって謎であるが、何も知らずに一気に一晩で読んだことだけを鮮明に覚えている。しかし、彼が、近代化により破壊されていくロシアの自然や伝統的農村文化を見つめ、それを宗教的な詩作品にまで昇華させた詩人であるといった基礎的な知識さえ持ち合わせていなかった。ましてや、彼が、「裸足のイサドラ」と異名をとった二十世紀を代表する天才ダンサー、イサドラ・ダンカン(一八七八〜一九二七)と結婚、ともにロシア革命に望みを託すも、やがて革命の現実に絶望し、妻イサドラにも見放され、三十歳にして精神錯乱をきたし、自らの手首を切り、その血で壁に最後の詩「さようなら友よ」を残して自殺したことなどは、知るよしもなかった。 いま考えると、ぼくは、かくも脈絡もないままコクトーに出会ったようである。もっとも、この詩を訳したのが堀口大学で、しかも、原詩である組詩「カンヌ」から一部だけを引き出して二行詩にし、「耳」という題名をつけたのも堀口大学で、『月下の一群』に収められていることを知ったのも、これまた、はるか後のことである。 2). それでも、ぼくたちの時代には、萩原朔太郎や中原中也の詩に出会うようにボードレールやランボー、マラルメの詩から感化をうけるということがあった。語学も満足に出来ない若者たちに、こうしたことが可能だったのは、すでに充分魅力的な日本語として読める訳詩集が、手に入りやすいものとして目の前に存在していたからである。
ここで、簡単に訳詩集の歴史を振り返っておきたい。わが国の訳詩集の嚆矢となったのは、明治十五年(一八八二)の『新体詩抄』であるが、明治を代表する訳詩集としては、明治二十二年(一八八九)の森?外を中心とする新声社の『於母影』、明治三十八年(一九〇五)の上田敏『海潮音』の二冊に指を屈することになる。
大正時代になると、大正二年(一九一三)に永井荷風『珊瑚集』があり、大正十四年(一九二五)には、昭和の詩壇、文学界に絶大な影響を及ぼした堀口大学『月下の一群』が出版される。 ところで、ここまでの訳詩集は、いずれもフランス近代詩を中心とした欧米の詩人の作品を翻訳したものであるが、昭和四年(一九二九)に、漢詩を伝統的な読み下し調ではなく、日本語の詩に移した画期的な詩集、佐藤春夫『車塵集』が世に出ることになる。 これらの訳詩集は、いずれも単に横のものを縦にしただけの翻訳詩の域を超えて、創作詩と同格のものとして、後世に広汎な影響をあたえた。今回は、日本の文学史に重要な意義を担ってきた訳詩にまつわる著述を紹介することにする。 3). まず最初は、福永武彦『異邦の薫り』
(一九七九)である。本書は、日本の訳
詩集から先に挙げたものを含む全部で十三の詩集を取り上げ、著者が自由に知見を加えたものである。著者のご専門のフランスものだけでなく、日夏耿之介『海表集』、茅野瀟々『リルケ詩抄』から呉茂一『ギリシア・ローマ古詩鈔』、金素雲『朝鮮詩集』など視野も広く、ときには原詩を引き、あるいは諸家の訳を比べ、また巻末には、簡便な「訳詩集略年表」や親切な「索引」を付すなど、雑誌「婦人之友」に連載されたものだけに、一般向けの至れり尽せりの著作となっている。
たとえば、「巷に雨の降る如く」で有名なヴェルレーヌの詩の訳を比較した場合。先ず、代表的な堀口大学(『月下の一群』大正十四年)では、 巷(ちまた)に雨の降る如く われの心に涙ふる。 かくも心に滲(にじ)み入る。 この悲みは何ならん? これが、永井荷風(『ふらんす物語』明治四十二年)では、 巷に雨の濺(そそ)ぐが如く わが心にも雨が降る 如何なれば、 かかる悲みのわが心の中(うち)には進入(すすみいり)りし さらに、諸家の訳を比較すると以下の通りとなる。 こころのうちに泣く涙、
町に降(ふ)り来(く)る雨のごと、
しのぶおもひのたゆげにも、 など泣きわぶるわがこころ。 (蒲原有明『常世鈔』大正十一年) 都(みやこ)に雨の降るごとく
わが心にも涙ふる。 心の底ににじみいる この侘(わび)しさは何ならむ。 (鈴木信太郎『近代仏蘭西象徴詩抄』 大正十三年)
都に雨の降るさまに
涙、雨降るわがこころ、 わが胸にかく沁みてゆく この倦怠(けだるさ)は何ならむ。 (矢野峰人『しるえつと』昭和八年)
ちまたに雨がふるように
ぼくの心になみだふる なんだろう このものうさは しとしとと心のうちにしのび入る (橋本一明『ヴェルレーヌ詩集』昭和四十一年) となっており、原詩とともに比較できる仕組みになっており、これだけでも興味は尽きない。 ところで、福永武彦(一九一八〜七九)といえば、ボードレール研究や中村真一郎、加藤周一らと「マチネ・ポエティク」を結成し、日本語による定型押韻詩の実験的な試みなどを経て、その後は『風土』、『草の花』、『死の島』などの作品で知られる。 また、『ゴーギャンの世界』など美術にも造詣が深く、この分野の名著も多い。これは、個人的な思い出であるが、ぼくが高校生の頃、絵画に興味をもつきっかけとなったのが、氏の『藝術の慰め』であった。この書を宝物のように座右に置き、大学時代もはなさず持ち歩いていたのに、いつのころか見当らなくなってしまった。幾日も家中を探し回ったものの、ついに見つからず、どうしても、あきらめきれず、古書店で再購入したことを思い出す。昨今では人生の大半の時間を失せもの探しに費やしているぼくであるが、一冊の本をあれほど時間をかけて探した経験はない。あの青春の手垢のついたぼくの『藝術の慰め』は、いったいどこにいったのだろう。 それにしても、氏の著作は、すべてが心から愛するものに対する言葉で溢れている。だから詩や絵についても、永く心に残るのである。氏が、本書でさりげなく述べられた次の言葉は、訳詩のみならず芸術を理解しようとする者にとって核心を指し示している。 原作の詩と訳者である詩人との間にぴたりと呼吸が合ふかどうかといふ問題がある。訳者がその原作に惚れ込まない限り、どんなにその詩人が創作に於てすぐれてゐるからと言って、翻訳がうまいとは限らない。 また、別の箇所では簡潔に、
謂はば言霊の力をもってゐた場合にだけ、訳詩集は成功したと言へるのである。 簡単な言葉で語られているが、外国語さえできれば誰にでも訳詩ができるわけではなく、訳詩の困難さについては、次の例を引けば一目瞭然であろう。同じくヴェルレーヌの「落葉」から、 秋の日の
オロンの ためいきの 身にしみて ひたぶるに うら悲し。 この『海潮音』に収められた上田敏の訳などは、同じくカール・ブッセの「山のあなたの空遠く「幸」住むと人のいふ」と共にもっとも人口に膾炙したものであるが、この名訳は、「鈴木信太郎博士がその訳著『ヴェルレーヌ詩集』を上梓する際に、この一篇のみは上田敏訳をそのまま借り受けて、これ以上の翻訳は出来ないからと断った」という話を伝えていることからも、訳詩の困難さを物語ってあまりある。 (次号につづく) (園城寺執事 福家俊彦)
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