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肉食の禁


▲かつて、シカは普通の食糧だった。シカ1頭を100人で食べたことがある。


 縄文人の日常は、女が支えた。野草を摘み、木の実を拾い、魚貝を漁って毎日の食糧とした。男たちは狩りに出るが、大物の獲物が捕れるのはひと月に一回かふた月に一回かでしかない。それでも女たちは男たちの毎日の労働を許した。ひと月かふた月に一回食べられる肉が、あまりにおいしかったからである。
 そんな中、弥生時代には、近親者が亡くなると、肉食を控えた様子が見られるという。獣の死体が近親者の死体を連想させるのだろうか。その肉をさばいて食すことは、はばかられた。
『記紀』の時代、肉食は農耕に悪害をもたらすと考えられた。肉食が農事を穢すというのである。天武天皇四年(六七五)の有名な肉食禁止令は、牛と馬と犬と猿と鶏を食べることを禁止したが、毎年四月から九月までの農耕期間に限った。
 しかも、これら動物以上によく食べられた鹿や猪は含まれていない。鹿や猪は、肉食という以上に普通の食べものだったからか。「しし」とは食用の肉を意味する。

 飛鳥時代に仏教が伝来すると、仏教を国家鎮護の法として国づくりを図る天皇たちは、仏教の教えである殺生を固く禁じた。仏教の説く輪廻転生は、自分がいま、食べようとしている、たとえば牛が自分の親族の生まれ変わりである可能性をいうし、そう思うと、口に入れられなくなる。しかし、それから何度も禁止令が出ているところを見ると、やっぱり食べられていたのである。

 
▲鴨のうぶ毛をあぶる

▲雀を焼く
 
中世の武士たちは茶の懐石に鳥類をよく食べた。織田信長が徳川家康を招待し、そのまかないを明智光秀が務めたときの献立が残されているが、鳥類のメニューが目につく。鴨汁、青鷺汁、たけのこと白鳥、鴫の羽盛り。
江戸時代は、米が価値の基準となる。石高制社会では、米は貨幣であった。侍の階級も禄高で示し、藩の大きさも米の数をいった。米食が至上のものとなり、反対の肉食は最下等のものとして卑しめられた。動物の肉を扱う者は差別されるようにもなった。
 ところが、山里では、相変わらず、山の獲物を食べてきたし、「薬喰い」と称して庶民は獣の肉を食べていた。彦根藩では、牛肉の味噌漬けを将軍家と御三家への献上品として、また各地の殿さまへの贈答品として送り、好評を得ていた。不老長寿、滋養強壮の秘薬として内々に贈っていたのである。「彦根肉」の名で知られた。

 余談ながら、仏教への信心が厚かった井伊直弼は、殺生戒を守って牛の屠殺を禁じた。肉好きの御三家・水戸藩主、徳川斉昭は再三、肉催促の手紙を出すが、聞き入れられない。これが遠因となって水戸の浪士が直弼を桜田門で討ったのだと、まことしやかに語られている。
 
肉食のように、たやすく食事の快楽を得ることができるようなものは、禁欲的な厳しい信仰生活の妨げになると、避けられてきた歴史が世界中にある。人間の欲望の水準を低くおさえ、それを精神の問題に昇華させることによって、社会の秩序を維持しようとしてきた。

 中東のイスラム教の国々の中でも産油国は、豊富な富により生活が潤沢を極めるため、宗教は戒律の最も厳しい原理主義に回帰しようとしているという。






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