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青森県の新羅神社(1)
青森県には「新羅神社」が三社と、合祠の「新羅神社」が一社ある。いずれも「しんら・・・」という。
神社の所在地は八戸市、三戸郡南部町、上北郡十和田湖町など旧南部藩の地域に属している。
これらの「新羅神社」は、後三年の役(1083〜87)で兄、源義家を助け、乱の平定に功があった
「新羅三郎義光」の孫「加賀美遠光」の三男「光行」が、青森県南部の地を領したことに起源をもつようである。
神社の中では、三戸郡南部町と上北郡十和田湖町の神社が1100年代の創建で、最も古い。
当然のことながら、三井寺の宗祖円珍の時代よりは後代にあたる。
一、八戸市の新羅神社
八戸市は盛岡南部藩の外港として栄え、街は馬淵川の下流に位置している。セメントや漁業が盛んである。
八戸市の中心街はJR東北本線「八戸駅」から少し離れた八戸線「本八戸」駅の周辺である。
寛文四年(1664)盛岡南部藩から分離独立した「八戸南部藩」(二万石)が藩庁を置いた所で、八戸城跡がある。
新羅神社は八戸長者一丁目にある。JR本八戸の駅で降りて、三八城公園の横を通り、約三十分ほど歩くと
「鍛冶町」のバス停に着く。そこから三百〜四百メートル歩き右折すると五十メートル位で「長者山」を
囲む広い道路にぶつかる。標高四十五メートルの長者山の山上に新羅神社がある。道路端の電柱に
「長者山新羅神社」の案内板が掲っている。長者山の麓には「八坂神社」がある。
長者山へ登る参道の入口に「長者山新羅神社南参道」の木柱が建っている。
参道は杉林の中の舗装された坂道。登ること約十五分。山上は大きな台状の場所である。
長者山の由来について八戸観光協会の説明文がある。
「平泉にいた義経に命令された家来の板橋長治と喜三太が、義経の居所を拵えようと柴を回し木を植え、
みだりに人が入らないようにした地と伝えられ、昔は長治山と呼んでいた・・・」。
宮司の柳川浩志氏によると「板橋長治なる者が松を植えた松林であった」とか、
「長者山は盛土の形をなした古墳で、第九七代後村上天皇(1339〜)の第八皇子の墓である」
などの伝承があるという。神社のある台地の周囲は土塁のような土手になっている。
馬場の跡のようである。山には杉の木のほか桜や柳など、さまざまの大木が繁っている。
神社発行の案内書によれば、当神社の祭神は「素盞鳴尊」と「新羅三郎源光命」の二神、
相殿には「倉稲魂命」(稲荷神社)「大物主命」(金刀毘羅神社)「素盞鳴尊」(八坂神社)
「天照大神」「豊受姫命」「誉田別命」(応神天皇)の六神。
境内社としては「高おがみ神社」「穴守神社」(穴守稲荷)「稲荷神社」「八坂神社」
(当社のみ山の麓に鎮座)「桜山招魂神社」などがある。
御神体について柳川宮司におたずねしたところ、「素盞鳴尊」については「鏡」、
「新羅三郎義光」については木造の座像であるとのことであった。
新羅神社の祭礼は一月一日の歳旦祭から始まり、十二月三十一日の大祓式、
歳晩祭に至るまで毎月のように行われる。二月の「えんぶり」、春の花見、薄暑の天皇様「童話会」、
初秋の「八戸三社大祭」「騎馬打毬」、仲秋の「奉納相撲」など約二十五にのぼる。
例祭は八月二十二日。特に享保六年よりはじまった三大祭は有名である。社宝は采配二振、長刀。
出羽弘明(東京リース株式会社・常務取締役)
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