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青森県の新羅神社(2)


二、神社の由来

南部町の新羅神社
江戸時代延宝六年(1678)八戸南部二代目藩主(南部直政)により、十一日町より初代藩主(直房)が居城盛岡で 信仰していた虚空蔵菩薩が長者山に勧請された折、領内の「五穀豊饒」「万人安穏」「無病息災」などの祈願所として 「新羅神社」が創建された。 愛宕明神も合祀し社号を三社堂、又は虚空蔵堂と称したといわれている(『八戸祠佐喜詞』『青森県の歴史散歩』『新羅神社のしおり』等)

八戸藩は江戸時代寛文四年(1664)に成立している。 当神社について八戸教育委員会『八戸の社寺建築』に次のような説明文がある。・・・ 『八戸藩日記』によれば、元禄七年(1649)八月、長者山に大きな社殿が建立された。 即ち「元禄七年五月に普請奉行・神太郎左衛門、六月に釘奉行小平川内」が任命され、八月には遷官が行われた。 その後九月に屋根葺工事がなされた。 その時の工事の「棟札」が『八戸祠佐喜詞』に載せられている。 それによれば、「長者山が四神相応な垂迹の霊地とみなし得ることが述べられており、 ここに藩主の一文が載せられている。 そして、ここに見えている新羅大明神(1683)に勧請されたものであった」・・・。 この勧請がどこからなされたかは不明であるが、 藩主の系類から推測すれば山梨県南部町の新羅神社で、創建は1678〜83年頃である。 現在の社殿は文政十年(1827)に八代藩主信真が造営したもの。 桜の馬場もこの時の開設で、打毬の奉納のこの時である。 明治二年の神社制度確立により社号を三社堂から「新羅神社」に改め、 祭神も「八坂神社」「新羅神社」「金毘羅宮」となって三社合祀の社殿とされている。 昭和五十一年「長者山新羅神社」と改称。なお、当神社には 「加賀美流附伝八戸騎馬打毬」(二組に分かれた騎馬武者が先に網のついた棒を使って毬を所定の場所に投げ込む)が伝わっているが、 騎馬打毬は南部藩の祖である加賀美遠光から始まり、代々八戸南部藩に伝承されたといわれる。

三、三戸郡南部町の新羅神社

南部町は新羅三郎義光の曽孫・信濃守遠光の三男「南部三郎光行」が糠部五郡を拝領し、 南部郷(山梨県)より家臣七十三人を率いて六隻の船で由比ヶ浜を発って海路八戸浦に上陸、 馬淵川をさかのぼり相内(南部町)に到り、平良ヶ崎城を築いた地といわれている。 建久二年(1191)と伝えられている。南部町の南部屋敷跡には南部利康(二十七代大守利直の四男)の霊屋がある。

南部町は八戸から車で約一時間。馬淵川の中流に位置する。 町は馬淵川により二分され、市街地は川の北側にある。 山の麓に拡がる農村である。南部町には縄文時代の遺跡が荒屋敷遺跡をはじめ、多く発見されている。

八戸市と盛岡市を結ぶ国道四号が馬淵川を渡るところに「南部大橋」が架かっている。 山梨県の南部町でも富士川を渡る橋を「南部橋」と呼んでいる。 国道四号を盛岡方面に向かい、JR諏訪平駅を過ぎてしばらく進むと「門前」の集落である。 道路を右手に折れ二百メートル位登る。 小高い丘陵地帯になる。ここから山までの間には台形の丘陵地が続き、 「南部氏館跡」や「本三戸城跡」などがある。参道は丘陵地へ登るために急勾配であり、杉などの木立に囲まれている。 入口には赤い木造の両部鳥居がある。

新羅神社のある場所は猿辺川左岸の台地上である。「南部町小向字早稲田」。ちょうど城郭の跡地そのままで台地上は 広く、民家なども沢山見える。

なお青森県の神社一覧で見ると、南部町大字沖田面字早稲田となっている。 宮司は石井淳氏。台地上の場所の右側民家の前にちょっとした円形の草地があり、 「第二世南部実光公創建」と書かれた一メートル程の木柱が立っている。 その傍らに「永福寺」説明案内板がある。「ここは元和三年(1617)」南部氏の盛岡築城に当たり、 その鬼門鎮護のため、ここから永福寺を移したが早稲田十一面観音は残されて現在に至っている・・・」。

新羅神社の扁額
かつて「新羅神社」と「早稲田観音」は合祀されていたようである。ここから沢を一つへだてて、 平良ヶ崎城跡がある。台地の大部分は沖通保育所が使っており、神社は台地の左手にある。 外官鳥居の上に新羅神社の扁額が見える。鳥居を過ぎると左手に「古峰神社」と刻んだ大きな石があり、 その台座の裏には「部落会一同昭和十七年八月二十五日」と刻まれている。 更に右手の狛犬の後方には十和田山と刻んだ神石も見られる。 又「安政二年」の銘の灯篭が一対置かれている。 『南部町誌』によれば「古峰神社は新羅神社境内社で、石は自然石で高さ一メートル六十五センチ、発生は明らかではない」とあり、 又「十和田山も境内社であり石は自然石である。明治末期まで十和田湖は女人禁制の地であったので、 十和田山詣りは男性に限られ、しかも十和田山詣り一週間前から新羅神社に参篭し女性との交わりを絶ち、旅立った」という。 神社の現社殿は嘉永四年(1851)に再建されたもので、コンクリートの基盤の上に一間社流造の建築。 山梨県南部町の新羅神社の社殿に似た儀式である。

彫刻等の飾りはあまりない。神社は拝殿と幣殿、本殿からなるようである。 外観は白壁で塗られた一戸建てのような感じに見える。拝殿の右側には社務所のような棟が付属している。 神社の建っている敷地は百坪強、敷地の側面から裏手は金網の柵で囲ってあり、 その廻りを巾一メートル、深さ一メートル程の川が流れており、城郭をめぐる堀の役割のようである。 猿辺川の水をひく用水路であろうか。祭神は「素盞鳴命」と「新羅三郎義光」の二神。 神社の創建年代は明確ではない。「三戸」は山梨県から入部した南部氏の領した土地であることから、 神社も南部氏が山梨県の南部の郷から勧請したものと考えられる。 山梨県の「新羅神社」は近江三井寺の「新羅神社」に由来することから、 「三戸の新羅神社」も「三井寺の新羅明神社」に由緒をもつことになる。 『南部町誌』によれば「社蔵の由緒書によると、南部光行が糠部下向に際して佐々木治平などに命じて甲斐より遷した」と記載している (それに従えば1191年のことと考えられる)。従って当神社の創建は八戸市の「長者山新羅神社」より大分古く、 恐らく青森県の新羅神社としては最も古いのではないかと考えられる。

なお、南部領の修験道は本山巡りが圧倒的に多く、南部家二十六代信道の母は一方井刑部の娘であり、 信道は一方井の修験自光坊に読書習字を教えられたという。 その自光坊が後年聖護院御門跡御奉書を受けて本山派惣録職について以来、南部領全域の山伏を支配したらしい。

出羽弘明(東京リース株式会社・常務取締役)






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