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長野県の新羅神社(1)
長野県には「新羅神社」と称する社は存在しないが、明治時代迄「新羅明神社」であった神社がある。
その社の祭神は現在も「新羅大明神」である。下伊那郡阿智村の「安布知(あふち)神社」である。
安布知神社の宮司は代々、林家で、現在の宮司は林幸男清綱氏である。
本稿の新羅明神に係る写真は林宮司の提供によるものである。
一、長野県阿智村について
阿智村は木曽山地から麓に至る途中の村であり、標高五百〜六百mの高地にある。
日本武尊で有名な神坂峠は一五六九mである。当村は古代、東山道が信濃へ入る最初の駅であった。
阿智村西方の園原を過ぎると岐阜県の恵那である。新羅神社がある多治見市が近い。
村の中央を安知川が流れている。安知川は天竜川と合流して遠州灘(太平洋)に注いでいる。
遠州灘に面した天竜川の河口近くの浜松市にも新羅神社が存在している。
阿智村へは東海道線豊橋駅から約四時間三十分の行程。
豊橋駅と飯田駅の間には「大海」「唐笠」などの地名があるが、
これらは天武天皇(大海人皇子)と縁の深い安曇(あずみ)氏族や尾張氏族、
及び古代渡来系の人々の居住地に係る地名として名高い。
古代の信濃は「壬申の乱」の際には大海人皇子を支援し、
美濃の後方部隊として兵力供給を行ったといわれており、
いわゆる新羅系渡来人と関係の深い土地であったようである。
これは縄文時代の渡来氏族と考えられる。出雲族が信濃に多く分布していたことを意味する。
諏訪神社の祭神は建御名方神であるが、天照大御神に対する出雲の国護りの際に、
出雲から信濃の諏訪に逃亡したといわれる神である。
『古事記』には大国主命の越の沼河比売への求婚の条があるが、越と出雲との文物の交流があったことは、
考古学的にも証明されており、弥生時代の土器の流入に際しても、
新潟県の頸城地方から長野県の善光寺平、東山道を通ったとされており、
このルートは建御名方神の逃亡ルートである。
阿知(阿智)の地名は『旧事本紀』に「天思兼命信濃国阿智祝部等祖(あちのはふりべがとおつおや)」と
あるのが最初で、後世は会地・逢地(あふち)の文字をあて、道が出会う意味をもたせたようである。
安布知神社の前宮司・倉田氏は「アチはあじさいの如く集まるの意で、
阿知川沿の地域は東山道から東海地方に通ずる道の分岐点で、
道が集まり会する所だから、会地または逢地の地名が起こった」と説明してくれた。
阿智村とその周辺には縄文時代から古墳時代にかけての複合遺跡が数えきれない程存在しており、
当地方に古くから文化が栄えていたことを教えてくれる。
古墳群と新羅神社、神光寺を含めて考えると、山形県置賜郡の新羅神社の構図とよく似ている。
山形県置賜郡地方には古代信濃の民が派遣され居住したことが知られている。
当村の木曽山系寄りにある園原の里については『信濃国風土記』にも記載があり、
古くから知られている。この地名が新羅国の王都徐耶伐(そやぼる)のソからきている、
という解釈が可能であるとすれば、「ソの原」であり、この地方には新羅系渡来人の集落があったことになる。
宮下操『安布知神社略史』によれば「”阿知”と称する地名は全国的に少なくとも数か所を数えることができ
るが、そのことごとくが大陸半島よりの帰化人の集落居住によるものであり、
いずれも我が国応神天皇の朝より秦氏および阿知使主(あちのおみ)の一族が
帰化在住していたところといわれている」と述べている。
二、新羅明神を祭る安布知神社
祭神は須佐之男命(新羅明神)・八意思兼命(創世の神の一柱である高御産巣日神の子)
・誉田別尊(応神天皇)の三神である。下伊那郡阿智村大字駒場にある。
木曽の妻籠宿(江戸時代の宿場)から木曽路や伊那路へ抜ける場所である。
神社の鎮座地は清坂山。古代東山道の阿智駅址に近い。近年は中央自動車道が神社の森の一部を走り抜けている。
神社の森から少し登ると、甲斐の武将・武田信玄(新羅三郎義光の子孫)の火葬塚がある。
安布知神社は阿智村のほぼ中央に位置しており、国道から二〇〜三〇m入った山の麓にある。
参道の入り口に大きな石の明神鳥居がある。鳥居の前に石灯籠が二基と「郷社安布知神社」と刻んだ石柱が立っている。
参道は巾一・五m位の緩やかな石畳の登り道で、左右には桜の木が植えられている。
石畳の参道を五〇〜六〇m程歩くと神社の境内である。
神社入口の左右には石柱が立っており、更にその奥にも大きな石柱や石灯籠がある。
最も奥まったところに四〇〜五〇段程の急な石段があり、その上の台地状の場所に社殿がある。
石段の両側に石柱や石灯籠が並び、社殿に登る石段の左右に狛犬の石像がある。
姿・顔とも猿にそっくりで、倉田・前宮司の話では「珍しい狛犬」として展覧会に出したという。
境内地はこの石段により上下に区分されている。本殿は上段にあり南向きである。
上段の境内地の周辺部には石造りの荒垣がある。神殿からは阿智村が一望できる。
境内地上段にある本殿の左右にはたくさんの神々が祭られている。
左手には大きな石の「水神」があり〆縄が張ってある。更に社務所と参向殿が建っている。
白壁の大きな建物。右手には合祀殿があり「妙義社・白鬚社」「津島社・日之御子社」
「稲荷社・秋葉社」「皇大神社・諏訪社」「今宮八幡社」がそれぞれ祭られている。
合祀殿の右手、少し離れて青麻社(あおそ)(栃木県の神社らしい)の社殿がある。
更に右手、森の中に細い道がある。道の左側部分には石垣が組まれ、その上に大小さまざまな神石が並んでいる。
「御嶽山」「猿田彦大神」「山神大山祗命」「金比羅大神」など十柱以上ある。
下段にある境内地には戦没者の碑や百度石、手水舎などがある。境内はいずれも良く整
備されており、杉の木や樹齢250年の柊、樹齢100年の榊などが植えられている。
桜の木も多い。境内の石灯籠十余基、石祠・石神碑が多い。
社宝には白銅製八華鏡、徳川幕府朱印状九通、宣旨などがある。神社の境内地は阿智村の神社の中で最大。
三、神社の由来
当神社は文化元年(1804)に京都の神祇官領長から「安布知神社宣状」を受けているにもかかわらず、
この社名が使われず、新羅明神として村人に親しまれてきた。
なお、古くは神宮寺として神光寺があったといわれている。本尊は文殊菩薩。
『社伝』によれば「仁徳天皇五十六年(368)三月、八華形の鏡を思兼命の霊代として、
明燈山の山頂に小祠を建立し地主神として斎きまつり、吾道(あち)大神宮ととなえ奉った。
彼の八華形の鏡が夜毎に光を放ちたるにより明燈山、光燈山と称した」という。
当地になぜ天孫系の思兼命が祭られたのか、その由緒は不明である。
地名の安智に由緒があり、当初は明燈山を地主神としていたのかも知れない。
「天思兼命は高皇産霊尊の子であり、その子・天表春命を伴って信濃国に降り、
神坂嶺下の安智に居して諏訪族を警戒した」(『阿智村誌』)ともいわれているが、
当村には諏訪神社も存在しているので、必ずしもこの説は当たらない。
『阿智村誌』によれば現在の相殿である八幡神(応神天皇)及び新羅明神(須佐之男命)の合祀について、
八幡神は奈良時代文武天皇の慶雲三年(706)の勧請、
新羅明神は室町時代正親町天皇の天正元年(1573)、
領主の小笠原信貴が近江国三井寺より勧請して清坂山の中腹に社殿を造営し、
これを祭ったという。そして「思兼命」「誉田別命」は相殿に奉祀され、
神社名も新羅明神社と称したと記載されている。
更に、『清坂社由来記』にも、「人王八十八代後深草院の御宇、同領主小笠原遠江守源長経、
新殿を御建立有て正元元年十一月十五日江州三井寺より新羅大明神、
日御子大明神を勧請奉て、……」の記載がある。『新羅明神神殿内墨書』にも同様な記載があり、
これらの資料によれば、新羅明神は地頭小笠原氏が勧請したことがわかる。
資料には日の御子大明神も勧請したとあるが、
近江の三井寺には新羅明神と共に火御子明神も相殿になっているので、恐らく一緒に勧請したものであろう。
出羽弘明(東京リース株式会社・常務取締役)
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