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東北地方における新羅神社(3)
柴田郡には新羅三郎義光と義光が連れて来た新羅人に係る新羅の郷がある。
「新羅の郷」は宮城県柴田郡支倉(はせくら)にある。JRは通っていない。
福島方面から東北自動車道の白石インター(宮城県)を過ぎ、村田ジャンクションを左折し山形自動車道に入り、
宮城川崎インターで降りる。国道二八六号を仙台市街の方向に進み、釜房湖の橋を渡る。
橋から三〇分位で碁石に着く。ここを右折すると道路は山あいのゆるい登り道。
「碁石・富岡線」といわれる道路。見渡すかぎり低い山と田んぼで、人家も尋ねる人も見当たらない。
川崎町教育委員会の佐藤氏から何回も案内の地図やパンフレットをいただいていたにもかかわらず、
「新羅の郷」は中々見つからなかった。
日向(地名からすると新羅系渡来人の住んだ土地を連想させる)地区に入り、
支倉小学校を過ぎたところを左折し少し登ると、有名な支倉六右衛門常長の墓がある円福寺である。
円福寺のご住職は不在で夫人にお目にかかった。夫人に「新羅の郷」を尋ねたが、知らないということであった。
寺を辞して小学校の向い側にある支倉駐在所に入って佐藤巡査に「新羅の郷」を尋ねたが、
知らないということであった。しかし、親切にもあちこち電話をして調べてくれた。
なんとそれは交番から三〇m程先を右折して、そこから百m程の距離のところであった。
道路脇の田んぼの手前に「新羅の郷」の立看板があり、傍らに大きな石が十個ほど立っている。
一番大きな石には「馬頭観音」の文字が刻まれていた。
田んぼの左側は家並み、右側は山裾が遠くまで伸びている。ここは丁度、駐在所の裏手にあたる場所であった。
「新羅の郷」の説明文(川崎町教育委員会)が掲げられていた。
「現在支倉の字名がついているが、古くは長谷倉とか馳倉(はせくら)と呼んだ。
それ以前は新羅であったという。永承六年(1051)安倍頼時が平泉によって反乱を起こして勢力を張ったので、
朝廷は源頼義、義家父子に征討を命じた。前九年の役である。
その折、源氏の武将新羅三郎義光が新羅(朝鮮)の帰化人三十七人を率いてきた。
二十人は槻木の入間田に、十七人をこの地に住まわせた。
支倉に住んだ新羅人は優れた技術を持っていたので、砂鉄を精錬して武器と農具を作って戦役の用に供した。
それ以来新羅の郷と呼ぶようになった。それを証明するように、ここ沼の橇(そり)をはじめ、
この森一帯に金屑が見られ、何時の頃からかこの森の奥に供養碑も建てられている。
遠く故郷を望んで没した新羅の人々の冥福を祈ってやまない。
昭和五十八年十二月」
文中にある「この森」とは、この説明文の碑の右手にある山である。
『川崎町の文化財(第五集)』(川崎町教育委員会)にも同様のことが記されている。
「前九年の役は康平五年(1062)源頼義が安倍貞任を衣川関、鳥海関に破って戦は終った。
…新羅三郎義光が率いて来た人々は日本に朝鮮から逃れて来た人々であったであろう。
支倉の十七人の新羅人には砂鉄を製錬させて武器や農機具を作らせた。
入間田の二十人には農業に従事させたと伝えられる。
現在支倉には西宝田から沼の橇、若張山一帯にかけて製錬跡を思わせる金屑などが処々で見受けられる。
金子平には特に鉄屑が多く、近くに製錬の炉の跡がある」。
そこで新羅の人々の供養塔を見るために、山の中の道を奥に向かって進むことにした。
道は一本道で整備されているが、左右はほとんど山で、山と道の間の狭い地にわずかに田んぼがある。
途中に「蝦夷穴遺跡」があった。五〜六分走ると、
左手の道路から百mくらい上の山裾に彩かな赤色の鳥居が見えた。
丸太を組み合わせたような二〜三mの高さの鹿島鳥居が、こんもりと繁った木々の手前にある。
赤色の鳥居は周囲が緑一色であるため一際目立つ。傍らに農家らしき家が一軒あった。
鳥居から山上に続く雑草の道を三十mくらい登ると、はるか前方の森の中に朱色の社が見えた。
急いでそばに寄ってみると「宝田不動尊」の社殿であった。
朱塗の四本の柱の上に屋根が乗っている簡素な社殿である。
明神鳥居を前後に立て、笠木と貫が渡してある楼門に似た社殿である。
奥の柱の左右には方形の垣、中側には戸がある。その奥に大きな岩石でできた穴がある。
滝水が岩場の上に流れ落ちている。滝水の流れは少ない。
水が落ちるところに石柱が三体立っており、中央は一・五mくらいの石碑、左右はそれより小さいが、
それぞれ不動明王が彫られている。本殿の左手には、やはり朱塗りの簡素な木造の柱と屋根だけの建物があり、
その中には石の地蔵が立っている。
地蔵の足元にはまつわりつく子供の像が二体あるところからすると水子地蔵なのかも知れない。
『川崎町の文化財(第八集)』の説明によると、 「この滝は佐山家の守り本尊であったが、佐山家が現在地に移住したのち一時衰退した。 昭和に入って間もなく赤石在住の管野氏がこの地に移り住んで、この滝を再興、多くの信者を集めて今日に至っている。 伝承によれば、前九年の役の天喜年中(1053―)に源家の武将新羅三郎義光が 転戦中に新羅人を連れて来て〃新羅の郷〃を設け製鉄業に従事させた。 製鉄師逹は滝の水を活用して製錬を行っていた。以来、この滝は製鉄師逹の守護神として大事にされていた」という。 建物は拝殿が鳥居造、奥殿は滝で落差は約十m。境内は約二十平方mである。 宝田不動尊から引き返し、再び山の中の道を進むと沼の橇地区の老朽溜池に突き当たるので、 その前を左折する。あまり良い道路ではない。道路の左右に山があり、右手の山の手前にわずかな田んぼがある。 人家は全くない。道路はやがて雪印乳業の実験牧場で行き止まりになる。 その少し手前、道路の左手に「新羅の郷」と書いた白い木柱が立っている。 道路の右手の田んぼの中には小さな沼がある。 そこから二十〜三十m山の中に入った木立の中に二mくらいの石碑と一mくらいの石柱が立っている。 それが新羅人の供養塔である。この石塔は、 昔は一つであったものが現在は二つに割れてしまっているとのことであったが、 小さな石の方には梵字の”あ”が刻まれていた。 あまり整理された様子もない山の木々の間にある供養塔は手入れもされていないらしく、 なんともさみしい感じであった。 石碑や石柱の下の方は落葉に埋もれていた。 入間田地方について
支倉の地の東南にある隣町であるが、山岳地帯であるため道路は大きく迂回しなければならない。
「新羅三郎義光が率いて来た新羅人の内、二十人を槻木(つきのき)町入間田に住まわせた」といわれる地方である。
JR東北線の槻木駅から車で約二十分くらい「亘理・村田線」という道路を走り、
南遠島を通り過ぎて、「五間堀」の用水路を越え、田んぼの中の道路を走ること十分くらいで入間田地区に着く。
地区の入口に案内板が立っている。その前から細い山道をしばらく登ると目の前が大きく開ける。
山裾に少し民家が見られる以外は、山あい一面に田んぼである。
地区の案内板には各家の名前が全部書いてあり、中央に「八雲神社」と書かれてあったので、
八雲神社を訪ねてみた。八〇六年創建、素盞之命が祭神で、配神は熊野神社であった。
宮司に新羅系の神社を聞いてみたが、全然知らないということであった。
柴田郡の入間地方が埼玉県(武蔵国)の入間地方と関係があるのかどうかは、はっきりしない。
埼玉県の入間地方は古代に新羅の人々が移された地域で、
新羅郡(七五八年)と称し、その後新座郡と呼ばれ、現在は新座市となっている。
出羽弘明(東京リース株式会社・常務取締役)
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