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新潟県の新羅神社(3)


四、関山神社の社殿

長い石畳の参道は石の反橋や石段、花壇など、更には大きな池があったりして趣がある。 参道に並ぶ灯籠も石造りや木造などたくさんある。神社の周囲は欝蒼とした森であるが、 森の中の木々などはきれいに刈り込まれている。本殿は一段と高い台地の広場にあるが、勇壮で風格がある。 拝殿・弊殿・本殿が一棟になった総欅の権現造りである。 社殿は妻入り型で、横から見ると寺院の金堂(折衷様式)のような建物であり、 向拝部分は唐破風造の門の形をしており、柱と屋根のみの向唐門である。 拝殿の奥の弊殿との間の扉の上に三枚の大きな額があり、 それぞれに当神社の御神体の写真が入っている。 神社の境内には太平洋戦争で活躍した軍艦妙高の記念碑がある。 神社の北側の森の中には関山宝蔵院跡地がある。五輪塔もいくつか並んでいる。当神社の別当寺である。

私が神社を訪ねた平成九年の夏には、神社総代の内田要作氏が社殿を開扉、 神殿内に灯明をともして案内してくれた。 当社の宮司や禰宜の人々が交通事故で亡くなった半年後であり、宮司は不在であった。


五、結び

当神社の由緒は、元来は蝦夷といわれた人々(倭族)が妙高山を祀っていたが、 その後新羅(加羅)系の人々が入植した。越の地方は出雲地方や諏訪地方と同類氏族が統治していた、 いわゆる部族の都市国家があった。関山(関川沿)や奴奈川(姫川沿)にも、 縄文時代遺構高地性の集落が存在し、硬玉や陶器の生産と流通が行なわれており、 それが弥生時代中期頃から鉄を持った先進文化が伝来し、生産活動が発展していった。

当地方は江戸時代迄は頸城郡といわれ、越後の最も西に位置している。 信濃と当地方は、現在松本市を起点とするJR大糸線で結ばれているが、 これは古代海人安曇族が祖神を祭ったといわれる穂高町の穂高神社を通る。 古代海人安曇族は三河・美濃・鳥取・福岡などにもおり、 長野県と新潟県が北限であろうといわれている。穂高神社には「お船祭り」が残っている。

関山は古くは関の山であったであろう。「往昔越後国之図」(1089)によれば、 関なる地名があり、現在も関・燕などの地名がある。 また、古くは妙光山・妙香山とされており、火の山を示している。 従って、古くは関の山神、或いは関川神社であろう。 妙光山は越後富士と呼ばれ、別名は須弥山(しゅみせん)といわれ、 元々は妙光(高)権現として火山性の山である妙高山や 関川の氾濫を治める神として祖神を祭ったのが創祀の由緒であろう。 新羅仏の存在や新井市にある斐太(ひた)古墳群などからみて、 当地方には新羅系渡来人が居住しており、 大国主命の父神である素盞鳴尊が祭られていたものであろう。 新井市・板倉町・中郷村・妙高村の頸南地方に古代遺跡が集中していることからすると、 古代はこの地帯が越後の中心地であり、国府もこの辺りにあったといわれている。


出羽弘明(東京リース株式会社・常務取締役)






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