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新潟県の新羅神社(2) 一、神社の祭神と新羅仏
石仏群の中には阿弥陀仏もあり、関山神社の奥院である妙高山頂には三尊阿弥陀如来が奉祀されており、
麓の関山神社にも阿弥陀如来を祭る妙高堂や二十六体の石仏群が存在している。
また、関山・戸隠(長野県戸隠山。手力雄命が天岩戸を開いて、その扉を瑞穂(みずほ)の国に投げ下ろした。
それが化して山となったのが戸隠山といわれている)権現には、天台系の修験組織があり、
延暦寺や園城寺の統制下にあったことを示す記事も載っている。
関山権現別当寺妙高山雲上寺宝蔵院日記及び位牌によれば、
和銅元年(708)裸形上人が妙高山頂を極め、神霊に感じて麓に三所権現を勧請した。
裸形上人は熊野那智山の修験者であるところから、熊野信仰であるといわれている。
鹿児島県大口市に白木(しらき)(新羅)神社がある。ここの祭神は聖観音像である。
この観音は元々白木山長福寺のものであったが、
明治の廃仏毀釈で寺が壊されたために神社となったともいわれている。
当地の聖観音像も宝蔵院と係わりがあったのかも知れない。
二、妙高山への信仰
関山神社の関山権現は火山性の山(現在は二重式休火山で、
縄文中・後期頃までは火を噴いていたといわれる)である妙高山に対する信仰や、
関川などの河川の氾濫を治める神として祖神を祭ったのが創祀の由緒であろう。
その後、仏教の伝来と共に仏像が祭られ、修験の霊山ともなった。そして修験道へと変わっていく。
宝蔵院なる修験道の寺院を別当として持っていた。
本来は農業を守る水分(みくまり)神の聖地であった。それに渡来系の祖神である新羅系の神が合流したものであろう。
妙高山山頂には八大竜王の棲む興善寺池がある。
礼祭は七月十七日に行なわれるが、六人の若者による「仮山伏(かりやまぶし)の棒使い」の神事から始まる。
その後、火祭りといわれる行事に移る。関山権現神を境に南北各村の代表の若者が「若」という薪木積に
火打石で火をつけ、火の手が先に上がった方が勝で、その村は大豊作という(「柱松の儀」)。
更に、松引き相撲大会・神楽舞と続き、翌日は菊の御紋の神輿と仮山伏の棒使いが行なわれる。
神仏習合・密教・修験道が結びついた祭礼の火祭りは、妙高山の神に対する祭りであろう。
このように山と山上の池を神とする例は、同じ越の国(越前)である福井県の今庄町にもあり、
信露貴山(夜叉池上)と夜叉ケ池から流れ出る淑羅(しらぎ)川が信仰の対象であったのと同じである。
これは日本神話の一つの類型である洪水神話、或いは山の峯への祖神降下神話と同じ範疇に入る。
また、各地に見られる羽衣伝説もこれらと通ずるものがある。
丹後地方の比治山の頂の真名井(麻奈井)という池に天女が降りた伝承や、近江の余呉湖の羽衣伝承などがある。
三、出雲神や諏訪神とのつながり
妙高村の西側にある西頸城山地の西側、
白馬山麓県立自然公園を流れる姫川が日本海に注ぐ河口の街・糸魚川市には、
縄文中期のヒスイの勾玉・丸玉などの遺跡が発見されている。
長者ケ原遺跡・後生山遺跡・田伏玉作遺跡・寺地遺跡等々、
多くの遺跡から当地方がヒスイの原石や半製品の中心地であったことが知られている。
『古事記』によれば、素戔嗚尊の八俣の大蛇退治の条に、
「高志の八俣(やまた)の大蛇(おろち)、年毎に来て喫(く)へり……」とあり、
あの出雲の素戔嗚尊が越の国の大蛇を退治し櫛名田比売(くしなだひめ)を救う話がある。
『釈日本紀』巻十に「越の国人有り。名を掬脛(こまはぎ)という。
力が強く土雲の子孫という」とあり、異族視された種族がいたことが判る。
そして素戔嗚尊の子(或いは五代の孫とも六代の孫ともいう)の大国主命は、
糸魚川の沼河比売(ぬなかわひめ)へ求婚に訪れるが、
二人の間にできた子神が建御名方命(たけみなかたのみこと)で信濃の諏訪神社の主神である。
これらの伝承の背後には、三世紀頃(弥生後期)高志より出雲への硬玉の交易ルートがあり、
糸魚川付近に玉生産を司るヌナカワ王国があったともいわれている (井上鋭夫『新潟県の歴史』)。
当地方は山陰や北陸地方と同様に、いわゆる出雲族が住んでいたとされ、
北部九州から日本海の沿岸地方は対朝鮮半島や中国大陸などとの交易により、
早い時代から開拓が進んだ地方である。阿曇(あづみ)も出雲と同じ語源であるといわれており、
海上生活者(海人族)を意味するといわれている。
古代の日本は諸豪族が小都市を作り、それらが地域的に連合していたと思われる。
越の豪族の出雲進出と、出雲の豪族の越の国への進出の物語りがあったであろう。
『出雲風土記』の国引き物語りに、 「高志の都都の三埼を国の余りありや見れば国の余りあり… …来縫える国は三穂の埼なり」と記述されているのは、越の国の人々の出雲地方への集団移住を示すものである。 丹後の国、与謝郡加悦町には大国主命が奴奈川(ぬなかわ)(沼河)姫と共に当地に住み、 姫が病にかかった折に、少名彦命が八色の息を吐いて病を治したといわれる伝説がある(小虫神社・大虫神社)。
奴奈川姫の子・建御名方命は出雲族の一派であるが、信濃を中心として一つの小国家を造っていたのであろう。
諏訪神社の祭神である建御名方神は大国主命の系譜にも、風土記等にも登場しない。
『古事記』に登場する神である。ミナカタという名称から、
この地方に土着していた南方(みなかた)族の神であるとも、
九州の宗像(むなかた)と同語であり、宗像氏系の神であるともい
われているが、ミナは水にも通ずるので、水神(農耕の神)
であり開拓の神であり、航海安全・漁業の神であった。
大和の先住民族は長髄彦(ながすねひこ)といわれ、蝦夷の一族といわれるが、
諏訪地方にも手長神社・足長神社等があるところをみると、
蝦夷がおり、出雲系即ち物部氏(素戔嗚尊の子・饒速日命と同族)系の建御名方命が
信濃を征服していったことを物語っている。
建御名方命は古事記の国譲神話では、建御雷神(たけみかづちのかみ)に敗れ諏訪の地に逃げ込んだとされているが、
信濃の伊那地方にある南アルプスの秀峯の一つ塩見岳の麓の地方には、
建御名方神が住民が塩不足で困っている時、山中に入り塩の噴き出る場所を探し人々に教えてくれた。
それが現在の大鹿村の鹿塩の湯であるといわれている。
また、鹿塩の地で天孫の軍勢を迎え撃ったという伝説も残っているところからしても、
天孫族に敗れたというのは嘘である。
諏訪神社は奈良の三輪山を神とする大神(おおみや)神社と同様に本殿はなく、背後の山が神体である。
最も古い信仰形式である。太鼓の神社には社殿はなく、山や木に神が宿ると考えていた(高木神)。
現在でも建物を造る際の地鎮祭等に名残りがある。
『日本書紀』の景行天皇の条に、「蝦夷の悪い者たちはすべて罪に服した。
たゞ信濃国・越国のみがすこし王化に従わず。即ち甲斐より……西の碓日坂にお着きになった。
こゝに道を分けて、吉備武彦を越の国に遣わして……」とあることから、
古代に碓氷峠を越えて越国へ入る道があった。
信濃と越後を結ぶ主要な古道は、信濃川(千曲川)沿のものと関川沿のものがあったことが判る。
四、関山神社の社殿
関山神社は妙高山関山神社といわれ、妙高山中に奥院がある。
神社は雄大で森閑とした森の中にある。広大な敷地に勇壮な社殿をもつ神社であるが、
神社の森に足を踏みいれると、何ともいえない心の落ち着きと愛着のようななつかしさを感ずる。
神社の森の入口の鳥居の左右の土地には花壇が造られて、
サルビア・ベゴニアなど花々が赤・白・紅色など色彩豊かに咲いており、地元の人々の暖かみを感じた。
出羽弘明(東京リース株式会社・常務取締役)
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