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石川県の新羅神社(3)


なお「都怒我阿良斯等神」についても、『日本書紀』垂仁二年の記事があり、 「崇神天皇の御世に、額に角の生えた人が、一つの船に乗って越の国の笥飯の浦に着いた。 それでそこを名付けて角鹿という。何処の国の人かと尋ねると、大加羅国の王の子、名は都怒我阿羅斯等。……」。 加羅国は四.六世紀頃朝鮮半島南部に栄えていた国の王子であり、今の敦賀に上陸、帰化したと記されている。 角のある人の姿は牛頭の冠をかぶった姿ではなかろうか。素盞鳴尊の別名に牛頭天皇・武塔天神とあり、 牛頭天皇は高麗系の渡来人により祇園に祭られている。 また、素盞鳴尊が新羅で降りたところが「曽戸茂梨」であり、ソシモリは牛の頭の意であることから、 素盞鳴尊のモデルは都怒我阿羅斯等ともいわれる。 都怒我阿羅斯等は崇神(すじん)天皇の時に渡来し、 垂仁(すいにん)天皇の二年に大加羅国に帰還する。 帰還に際し、御間城(みまき)天皇の名をとり国の名にせよといわれているが、 みまきは任那来と解釈すれば、垂仁天皇が任那(加羅)から来た人という意味になる。 ともあれ数千年の昔から、海流に乗り季節風に吹かれて、 大陸や朝鮮半島から多くの人や文化が能登半島に渡ってきたことは「渤海使の福浦到来」「万葉集の熊来のやらの新羅斧」、 更に「能登各地に分布する渡来系人格神を祭る神社の存在」によって証明できる。 久麻加夫都の祭神も渡来人集団が信仰したか、または土地の人々が海の彼方に常世の国を描く寄り神として祀った神であるか、 のいずれかであろう(『お熊甲祭り』)。

『能登国式内等旧社記』は「都怒我阿良斯等」、更に『神名帳考証』には「阿良加志は阿羅斯等の訛音にて、 都怒我は角あるもの、即ち冑にて〃熊甲〃の語義に通ずる」として 「阿良加志比古と都怒我阿羅斯等とは異名同神なり」といっていることからすれば、 二神とも新羅人が祭った神である可能性が強い。また、当社は明治五年七尾県の郷社となり、 明治二十四年社名を「熊甲」から「久麻加夫都」に改めた。

神社に対する信仰は今も盛んであり、能登の奇祭の中でも際だっている。 毎年九月二十日「熊甲二十日祭(はつかまつり)」と呼ばれ、 近郷の二十二か村十九末社からくりだす祭礼の行列が、 鉦(かね)と太鼓に合わせ猿田彦が乱舞(奉幣式)、高さ20mの深紅のラシャの大枠旗二十数基と、 金色に輝く二十基の神輿に色どられる。祭りの日は秋の豊作、豊漁への感謝や嫁選びの日であり、 社前の加茂原での練り回りのあと祭典を行う。 現在、重要文化財。この祭りとほぼ同様な様式で行われるのが田鶴浜の白比古神社の祭りであるところからすると、 この二社は共に新羅、高麗人たちが祭った社であろう。

当社の社宝としては、本殿には重文の「久麻加夫都阿良加志比古神坐像」があり、 藤原時代(平安時代)後期の一木造・丸彫りの造像がある。 朝鮮様式の冠帽と道服で装われた異国風のいかにもコマの神にふさわしい珍しい神像である。

出羽弘明(東京リース株式会社・常務取締役)






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