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福井県の新羅神社(1) 若狭地方の森羅神社
若狭地方は北九州・山陰・北陸などの地域と同様に日本海沿岸の古代日本の先進的地域であった。
若狭(ワカサ)の語源は、朝鮮語のワカソ(往き来)であるともいわれている。
弥生時代の水稲は朝鮮半島から直接に伝来したものであろう。
若狭地方は敦賀市から小浜市に渡る若狭湾に面した地方である。
湾内には敦賀半島、中外海半島、大島半島をはじめ数多くの入江や島が存在し、西隣は丹後国である。
当地方も新羅・加耶系氏族に係る伝承や伝説が多く、神社の祭祀氏族としては、
秦(はた)氏(朝鮮語のパタは海の意で、渡来海人であろう)が圧倒的に多い。
秦氏については古代中国の秦氏の移民説や加羅氏族説など、異説が多い。
当地の神社で新羅神社と標記される神社は現存しないが、
標記の方法を変えて新羅(しらぎ)信仰を今に伝えている神社がいくつか残っている。
敦賀市の「白城(しらぎ)神社」(所在地・白木)、
「信露貴彦(しろきひこ)神社」(沓見(くつみ))、
小浜市の「白石(しらいし)神社」(下根来(しもねごり))などである。これらに
加え「気比(けひ)神社」「角鹿神社」「須可麻(すがま)神社」なども
新羅・加羅系の氏族が祖神を祭ったといわれている。当地方は応神天皇や継体天皇とのつながりが強い地方であり、
いわゆる古代三王朝の内、二王朝、即ち応神王朝(応神―武烈)・継体王朝(継体―現在)が、
越前・若狭地方と関係している。両王朝共に新羅・加羅等と係わりが深かったであろう。
継体天皇は近江で生まれたが、越前で育っており、越前・若狭・近江などを含んだ地域は一つの文化圏といえる。
この時代、敦賀と大和の間を結ぶ重要な交通路である琵琶湖西岸には三尾氏、東岸には息長氏が勢力をもっていた。
一、敦賀市の神社
日本海では朝鮮半島の東海岸を南下するリマン海流が対馬の近くで対馬海流と合流、
山陰や北陸沿岸沿いに北上してくる。この海流を利用して、
古代から大陸の文化が朝鮮半島を経由して日本にもたらされたといわれている。
敦賀市は日本列島のほぼ中央に位置するが、敦賀湾に面した静かな天然の良港として栄えた。
南は近江や畿内に接し、東は鉢伏山、栃の木峠、木の芽峠、大黒山などを境に今庄町に接している。
敦賀の名称は渡来人都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)の渡来伝承によるものである。
「上古敦賀の港は三韓(古代朝鮮)交通の要地にして、三韓・任那人等の多く此地に渡来し、
敦賀付近の地に移住土着したる者少なからず。其族祖神を新羅神社として祭祀せるもの多く、
信露貴神社亦共一に属す」(『今庄の歴史探訪』)
また、敦賀付近には新羅(シラギ)の宛字と思われる土地名や神社名が多く、
例えば敦賀市の白木、神社名では信露貴彦(しろきひこ)神社
・白城(しらき)神社・白鬚神社などがある(『今庄の歴史探訪』)。
古来敦賀は北陸道や西近江路の入口に位置し、『延喜式』には「越前国……海路。漕二敦賀津一。……至二大津一……。」とある。
従って、越前地方は敦賀を介し近江地方と密接なつながりをもち、日本海の産物を琵琶湖経由で、
畿内の京都や奈良などの都に送っていたことがわかる。
(1)気比神社
当地には、実在された最初の天皇といわれている応神天皇(四世紀後半)ゆかりの神社がある。
気比(けひ)神宮といわれ、「新羅神社」と呼ばれてはいないが、
『記紀』に記載の最古の新羅系渡来人「天日槍」の伝承がある神社である。
敦賀市曙町の「気比の松原」の近くにある延喜式の式内社である。
祭神は伊奢沙別命(いざさわけ)・仲哀天皇
・神功皇后・日本武尊・応神天皇・玉姫尊・武内宿禰の七神。
境内には式内社「角鹿(つぬが)神社」がある。
『福井県神社誌』によれば、祭神は仲哀天皇・大山祇命・神功皇后・日本武尊・素佐之男尊の五神である。
境内社に神明宮・常宮社・稲荷神社・金比羅社等がある。
垂仁天皇(三世紀後半頃)三年に渡来した「新羅の王子・
天日槍(あめのひぼこ)を
伊奢(いざ)さわけのみこと沙別命として祭った」といわれている。
『書紀』によれば、応神天皇は角鹿の笥飯大神と名前を交換し、
大神を去来沙別(いざさわけ)の神とし、
応神は誉田別(ほむだわけ)尊としたとあ
る。すると、応神の元の名前は去来沙別であり、天日槍ということになる。
即ち、新羅・加羅系の人であったということになるのである。
気比神宮寺にある「都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)」の伝承は、
頭に角をもつ神が一族と共に角鹿湊へ渡来、角鹿神社の祭神となったという。
阿羅斯等とは、新羅・加羅では「貴」の敬称であったといわれ、
都怒我阿羅斯等も角鹿へ貴人が相次いだことを意味しているものであろう。
更に、額に角有(お)ひたる人は武人を形象化したものであるという説もある。
北海道余市町のフゴッペ洞窟壁画には角の生えたヒトの絵が残っている。
気比神功の祭神である伊奢沙別命は、新羅の王子天日槍であり、
都怒我阿羅斯等でもあると共に、応神天皇もこの一族を神として崇めていたことが知られる。
気比神社の御田植祭や寅神祭は、農耕技術の伝来や海上安全の神を祭ったものである。
(2)白城(しらぎ)神社
若狭地方には越の国と同様に、新羅(加羅・加耶)系氏族が広く分布していたことを今に残している神社がある。
鎮座の場所もシラキという。
白木は元々新羅と書いていたが、中世になり白木と書かれるようになったらしい。
新羅のことを白城として白の色をあてたのは、
新羅が西方の国で五行思想では西方が白色であることによる(水野祐『日本神話を見直す』)ものであり、
恐らく新羅→白城→白木となったのであろう。
山中襄太『地名語源辞典』には「白木」は「新羅来(しらき)」の意らしい、としている。
橋本昭三『白木の星』によれば、南北朝の時代、敦賀の金ケ崎に城があった頃の「白木」の地名は、
当時の文書の中では「白鬼」となっているという。
先に見た今庄町にも「白鬼」という地名がいくつかあった。
これは、この地域一帯に共通の文化があったことを示すものである。
「白木」は敦賀半島北端の門ケ崎に近く、白木浦に面した半農半漁の小さな集落である。
白木浦は白木港と白木海水浴場がある。湾の両端は松ケ崎と門ケ崎。漁港は若狭湾につながる。
神社は村の中央部、西側の台地上にある。
白木明神を祭る白城神社(祭神鵜茅葺不合(うがやぶきあえず)尊)は
沓見にある信露貴彦神社などと共に新羅系の旧社といわれている(『福井県の歴史散歩』山川出版社、『敦賀市史』ほか)。
『敦賀郡神社誌』『遠敷郡誌』及び『今庄町誌』等によれば、当社は敦賀郡の式内社「白城神社」であり、
俗に「白木明神」「鵜羽大明神」と尊称されている。
出羽弘明(東京リース株式会社・常務取締役)
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