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京都府の新羅神社(2) 更に、北にある多久神社の北西八百m程の所の矢田の集落の西端に矢田神社がある。この北方、弥栄町との境の山上には太田南古墳群があり、平成二年(一九九〇)から六年にかけての発掘調査で、後漢時代の鏡などが出土している。平成六年の発掘では青龍三年(二三五)の年号入りの青銅鏡が発見された。年号が刻まれた鏡としては日本最古のものである(青龍三年は中国・魏の年号で、邪馬台国の女王卑弥呼が景初三年〈二三九〉に魏に朝貢した際に皇帝から下賜された鏡の可能性が強いといわれている)。 また、竹野郡網野町には銚子山古墳(弥栄町の太田古墳から五〜六qの距離)がある。全長一九八mの前方後円墳で、日本海側に存在する古墳としては最大のもの(五世紀前半の築造)である。 丹後半島は海人族が住んでいたと思われる。その海人族は九州の豊後(大分)国とつながりが深く、いくつかの共通性が見られる。和歌山県に古代の怡土(いと)国(福岡県)に因む地名が多いのと同様であるが、これは九州にあった国の氏族が、丹後や紀伊地方へ移住した痕跡ではあるまいか。あま、大野、やさか、竹野、矢田、はた、等。
「ひじのまない」については、丹後は「比治の真名井」、豊後では国東半島の近くの速水郡日出(ひじ)町に「真那井(まない)」がある。また、丹後の伊根町の漁師の家と同じ構造の家が、豊後の南、海部(あまべ)郡に見られる。海部氏(海人族)が九州から中部地方に至る間に広く分布していたことの証拠である。なお、海部郡は紀伊や尾張にもあり、阿曇(あずみ)の海人として朝鮮半島や江南の古代海人と関係が深い。
(二)溝谷神社 溝谷神社のある場所は外(との)村といわれ、溝谷の集落から車で約十分ほど。両側は山に囲まれた谷間のようなところの道である。道路の脇にはわずかであるが田んぼが見られる。
外村の中心部の溝谷川に架かる朱塗りの(宮側橋)橋を渡ると右手に大きな農家があり、農家の手前に溝谷神社の案内板が立っている。橋を渡り、四〇〜五〇mのところに大きな石柱が立っている。風雪のため石が風化して若干読みにくいが「当村祭社溝谷神社」と刻まれている。石柱からは参道を兼ねた一般道が緩やかな登り道になって続いている。
神社の鳥居の前に二十〜三十段の幅広い石段があり、石段を登った両側に高さ二m位の(火袋が四角で宝珠のついた)石灯籠が二基立っており、更に二〇mほど参道を歩くと、大きな石の明神鳥居が立っている。石段を十段ほど登ると切妻瓦葺、木造の八脚門が立っている。石灯籠の背後の左右に苔むして原型がほとんど見分けがつかない狛犬の石像がある。門の右内側は板で囲まれた部屋になっているが、門の左内側には板囲いがなく、大きな神楽殿と拝殿を兼ねたような板の間になっている。絵馬や戦記絵の奉納額が掲げてあり、その中に溝谷神社、新羅大明神の奉納額があった。門の梁行三・六六m。
門をくぐると広い境内地があり、正面奥に七十〜八十段ほどの石段がある。この境内地には石灯籠が四基、狛犬二体、忠魂碑(石柱)や石神碑、小さな祠等が祭られている。この神社の石灯籠は弥栄町指定文化財になっている。
境内地の奥にある七十〜八十段の石段を登った最も高い場所に、杉や楠木の林に囲まれた神社の本殿がある。祭神は新羅(しらぎ)大明神(須佐之男命)、奈具大明神(豊宇気能売命)、天照皇大神の三神で、旧溝谷村三部落の氏神である。本殿と拝殿よりなるが、本殿は瓦屋根の覆屋内に保護されている。拝殿は入母屋造、正面は格子戸、側面は板で覆われている。本殿の扉には菊の紋章と桐の紋が彫ってあり、周辺には高欄つきの回縁がついている。古いがりっぱな建物である。
境内社
社宝としては、
当神社の創建年代については、当神社の火災により古文書が焼失し往古の由緒は不明であるが、延喜式(九二七年)記載の神社であることや、崇神天皇の時代の四道将軍の派遣と関係があること、新羅牛頭山の素盞鳴命を祭ったということ、四道将軍の子・大矢田ノ宿禰が新羅征伐の帰途、海が荒れて新羅大明神を奉じたこと、神功皇后が新羅よりの帰途、着船したこと、などから考えれば、当社は古代から存在し、かつ新羅系渡来人と深いつながりがあったことが判る。
出羽弘明(東京リース株式会社・常務取締役)
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