第十番札所 三室戸寺
花の寺の名にふさわしく
紅葉の盛りを過ぎた十二月はじめ、花の寺と称される三室戸寺へと向う。あたりは冬支度真っ最中で、訪れる人もまばらではとの予想を裏切り、多くの参拝客が山内を行きかう。さすが第十番札所、三室戸寺である。三井寺の僧、行尊大僧正が記した最古の西国巡記によると、三室戸寺は三十三番目つまり結願の札所であった。締めくくりにふさわしい特別な寺であったという事である。
三室戸寺はもともと天台宗寺門派に属していたが、現在は本山修験宗の別格本山となっている。かつては三室戸寺で、大峰山に入山する聖護院門跡が十七日間の護摩を修したことでも知られている。
三室戸寺のある宇治は、京と大和、近江と結ぶ道が南北に走る交通の要衝にある。京に攻め上がる者、大和へ落ち延びる者たちが踏みしめた歴史ある道を、今も多くの巡礼者たちが行きかう。そんな巡礼者の目を驚かすのが、第十四番札所三井寺からやってきたべんべんの巡礼姿である。デジカメを構える人々にポーズを決め、愛想を振りまくべんべんは絶好調で、ほら貝を吹くサービスまで披露する。
三室戸寺と彫られた大きな石造りの道標を過ぎると、山道の右手に五千坪の池泉回遊式の庭園「与楽園」がある。春には二万株のつつじ、千本の石楠花、六月は一万株の紫陽花、七月は蓮、さらに秋には紅葉の名所にもなっている。べんべんが訪れた日も、秋の名残を惜しむように、紅葉がここかしこに残っていた。
べんべん一行は朱色の山門を過ぎ、本堂に続く石段をのぼる。三室戸寺の境内は広く、山を背にして五間重層入母屋造の本堂が建つ。べんべんは内陣中央の須弥壇に詣で、本尊千手観音像にお参りし般若心経をとなえる。
勝負は牛に聞く
三室戸寺の御本尊は千手観音像であるが、厳重な秘仏で、写真も公表されていない。本尊厨子の前に立つ「お前立ち」像は飛鳥様式の二臂の観音像で、二臂でありながら「千手観音」と称されている。この「お前立ち」像は、大ぶりの宝冠を戴き、両手は胸前で組む。天衣の表現は図式的で、体側に左右対称に鰭状に広がっている。こうした像容は奈良・法隆寺夢殿の救世観音像など、飛鳥時代の仏像にみられるものである。高さ二丈の観音像は寛正年間の火災で失われたが、胎内に納められていた一尺二寸の二臂の観音像は無事であったという。
べんべんはそのあと、御住職にご案内いただき、御朱印もいただき広い境内を一巡り。本堂前に大きな口を開けた牛の像と対面する。これは勝運祈願の宝勝牛といって、こんな逸話が残っている。
昔、宇治の里に富右衛門という貧しいお百姓さんがいた。やっと手に入れた子牛は弱々しいので、毎月の観音詣でに三室戸寺に連れてくるようになった。子牛は境内の草を食べると粘液まみれの丸い玉を吐き出した。夫婦はそれを洗い清めて大事に持っていた。玉を吐いたあとの子牛は、どんどん元気になり村一番の牛に育った。その噂を聞いた欲深な権兵衛は、自分の牛と戦わせたいと言ってきた。富右衛門はとんでもないこと事だと断わったが、ある夜、富右衛門の夢枕に現れ、権兵衛の牛と戦わせてくれという。いよいよ決戦の時が来て、富右衛門の牛が見事に勝利する。その時に得た報奨金をもとに牛の仲買人として成功した富右衛門は、牛玉をくわえた宝勝牛を寄贈した、という話である。
その宝勝牛の横に平成の大横綱、貴乃花と若乃花の手形が奉納されている。べんべんは早速その横綱と手形の大きさ比べ。相撲では勝負にならないけれど、手の大きさは勝ったと大満足のべんべんであった。
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