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天台大師の生涯


真実の仏教を求めて - 天台宗を開く

天台大師像(重文)
天台大師は今から1400余年前に霊山天台山にこもられ『法華経』の精神と龍樹の教学に基づき 教理と実践の二門を兼備した総合的な仏教を確立され、新しい中国独自の仏教、真実の仏教である天台宗を開かれました。

隋晋王広(煬帝)の尊崇篤く、隋代第一の学匠として「智者大師」の号を賜わり、 わが国では高祖天台智者大師とお呼びし、篤く尊崇されています。

わが国には伝教大師により伝えられ、大師は比叡山に日本天台宗の総本山として 延暦寺を創建され、この後の日本の伝統諸文化に大きな影響を及ぼしました。


ご誕生の奇端

天台大師智顗は梁大洞4年(538)荊州華容県(湖南省)にお生まれになりました。 父の陳起祖は南朝の名門で梁国の高官でした。 母は五色の霧の囲まれ白鼠を飲む夢をご覧になられ男子を生んだと伝えられ、 ご誕生のときには家屋が輝いたので幼名を光道または王道と申し上げたといいます。


夢の霊験、大悟

真覚寺東門
南北朝の動乱により一家も没落し両親も亡くされるという世の盛衰興亡を目のあたりにされた大師は、 承正3年(554)、17歳のときに長沙出仏像を拝み、仏像に三度頭を撫でられる夢を見て出家を決意されました。

陳永定元年(557)、20歳のときにご出家され太賢山で修行をつまれ、 天嘉元年(560)には光州大蘇山南岳慧思禅師の弟子になられます。 慧思禅師は大師を一目見て「昔お釈迦様が霊鷲山で『法華経』をお説きになられたときに 同じ席で聞いたもの同士ではないか」と言われ、その不思議な再会を喜ばれたといわれています。 これを霊山同聴の宿縁と言います。 大師は慧思禅師の指導を得て一心に修行し、ついに『法華経』の真髄、法華三昧という最初の悟りを承けられました。 世にこの事跡を大蘇開悟と呼んでおります。


霊山を開く

国清寺大雄宝殿
その後、大師は陳の都金陵(南京)に赴かれ瓦官寺で多くの弟子を集め教化されましたが、 陳太建7年(575)9月、御年38歳の時に霊山天台山(淅江省)にご入山、隠棲をされます。

翌年、天台山の主峰、華頂峰で修禅されている時、その夜現れた種々の魔を降ろして、 明けの明星を見て真の悟りを開かれました。この華頂峰での開悟を華頂降魔と称しています。


天台三大部

智者肉身塔 48歳の時、陳の皇帝に請われて天台山を下山、 金陵の名刹光宅寺で『法華経文句』を開講されました。 その後、陳は隋により滅ぼされ、首都金陵も戦場となります。 大師は戦乱を避け故郷の荊州に帰郷されました。 ここで玉泉寺を建立され、『法華玄義』と『摩訶止観』を 講説されました。これらは天台宗の聖典として弟子の章安灌頂により筆録され、天台三大部と称されています。


ご入滅

智者塔院(真覚寺本殿)
大師は58歳の秋、十年ぶりに自らご入滅の地と決められていた天台山へ帰山されました。

開皇17年(597)隋の煬帝の求めに応じ天台山を下山されましたが、 いよいよ疾重くご自身の臨終の近いことを悟られた大師は天台山西門の石城寺(新昌大仏寺)に入られ、 11月24日未時(昼2時)端座してご入滅されました。 享年60歳でした。

ご遺骸は遺言にしたがって修禅寺の西南の峰に埋葬され、 そこに大師の即身仏を納め、智者肉身塔が建てられました。 現在の智者塔院(真覚寺)です。





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