その(2) 平家物語と三井寺
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり・・・。平家物語、有名な書き出しの部分である。平家物語は、古くから琵琶法師によって詠み継がれた軍記物語、作者や時代背景、どのような経過で今に伝わったか定かでないが、平家一門の栄華とその没落、滅亡を仏教の因果観・無常観を基調として描かれた一大叙事詩である。
今回は、平家物語と湖国、そして三井寺との関係を訪ね歩く。
以仁王
平清盛は保元の乱(一一五六年)、 平治の乱(一一五九年)などで武勲を たて、後白河法皇の厚い庇護のもと、正三位、中納言、ついには太政大臣にまで上り詰める。「平家の一門でないものは人にあらず」とまで言われ、一 門は栄華を極めた。
清盛は天下を掌握すると、世間にはばかる事なく傍若無人な振る舞いをし、人心は離れ、世は乱れた。その平家政権に対して最初に反旗を翻したのが、もちひと後白河法皇の第二王子、以仁王(高倉宮)と源頼政であった。
治承四年(一一八〇)以仁王は平家打倒の令旨(皇太子や皇族から出される命令)を発する。令旨は密かに全国に伝えられるが、平家方に漏れ、鳥羽 離宮に幽閉されていた以仁王は三井寺に逃れる。
謀議が平家方に漏れるや否や、三井寺方は南都(興福寺)に以仁王をかくまおうと僧兵千余騎を出す。源頼政の兵五百余騎を加えた軍勢は、宇治川下 り平等院へと向かう。当時平等院は三井寺の末寺で、以仁王を休ませようと したからである。それを聞いた清盛は 「以仁王を捕らえ土佐へ流せ」と激怒。平家方は知盛を大将に、二万八千余騎を従えて宇治橋まで攻め寄せた。頼政は宇治橋の橋板三間分をはずさせ、平家軍を渡れぬようにした。両軍は宇治川をはさみ、しばし睨みあい。やがて、矢合わせ(宣戦布告。互いに矢を 撃ち交わす)する。
三井寺の怪僧浄妙坊は橋の上へ進み、 “日頃は音にもききつらむ、今は目にも見給へ。三井寺にはそのかくれなし。堂衆のなかに、筒井の浄妙明秀といふ、一人当千の兵者ぞや。われと思はむ人は、寄りあへや、見参せむ”
塗籠藤の弓二十四本で十二人射抜き、十一人に負傷させ、毛皮の沓脱いで裸足になり、橋の行桁を、さらさらと走り渡った。長刀で向かってくる敵を五人なぎ倒し、六人目の敵に会って、長刀は真中から折れてしまった。それから先は太刀を抜いて、四方八方すかさず斬りつけた。その場で八人斬り倒し、九人目の敵の兜に、強く打ちつけて、ちょうと折れ、刀はざぶんと川の中・・・。
多勢に無勢。戦局は圧倒的多数の平家方に傾く。以仁王はわずかな家臣を引きつれ、奈良、興福寺へと向かう。途中敵の流れ矢に会い死亡。源頼政は平等院で自害する。
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木曽義仲
平家物語は滅びの美学、幾つもの死が描かれている。中でも壮絶な死をとげたのは木曽義仲とその家臣、今井兼平であろう。JR膳所駅から琵琶湖方面に歩いて十分の所にある義仲寺を訪ねる。松尾芭蕉の墓所としても有名な義仲寺には、その義仲のいさぎよい死 と、自分の人生をかさねて詠んだ“木曽殿と背中あわせの寒さかな”という芭蕉の句碑がある。
木曽義仲は、木曽次郎源義仲とも呼ばれ、木曽地方の素朴な山育ちであっ たという。武勲に優れた義仲は、平家打倒の命を源頼朝の弟、範頼に受け、治承四年(一一八〇)挙兵する。
倶利伽羅峠の戦い(富山県と石川県 境)で平家の大軍を破って上洛する。長年の飢餓と平家の狼藉によって、荒廃した都の治安回復を期待されたが、大軍が都に居座ったことによる食料事情の悪化などにより、治安回復は失敗する。また、皇位継承への介入により、後白河法皇との関係も悪化。法住寺合戦に及んで後鳥羽天皇を幽閉し、征東大将軍(旭将軍)を名乗った。
この事が後白河法王の逆鱗にふれ、 同じ源氏一門の範頼・義経以下、傘下の東国諸将に義仲討伐を命じた。宇治川の戦いなどで敗れた義仲は、京都を脱出しようと図る。ところが近江国粟津に着いたところ、一条忠頼率いる甲斐源氏軍と遭遇、最早戦力として成り 立たなくなっていた義仲軍は潰滅する。辛うじて逃げ切った義仲に従うのは今井兼平のみであった。義仲と兼平は、乳母が同じという、切っても切れぬ昔からの主従。
義仲は「日頃は何とも思わない鎧が今日は重く感じる」「御身体もまだ疲 れてはおりません。馬も弱っておりま せん。弱気になってるからこそ、そんな風に感じるのです。兼平たった一騎でありますが、世の武者千騎と思ってください。まだ矢が七、八本あります。それで暫く防ぎ矢を致しますので、あそこに見える粟津の松原でどうぞ、ご自害くださいませ」
そこで義仲は覚悟決めて、粟津の松原に踏み込んだところ、馬の脚が深田に取られて動けなくなり、顔面に矢を射られて討ち死にした。
これを見た兼平も「これが日本一の強者の自害する手本だ」と言って、太刀の先を口に含み、馬上から飛び降り自害した。
JR石山駅の北西二〇〇メートル、盛越(もろこし)川のほとりに、末裔が建立した今井兼平の墓がある。
那須与一
東近江市五個荘町、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている金堂地区に、那須与一ゆかりの寺、弘誓寺がある。
あたりは古い商人屋敷が並び、川堀には錦鯉が泳ぐ落ち着いた雰囲気の町である。五個荘は近江商人発祥の地であり、また「花筏」など近江商人を題材とした小説で知られる外村繁の生家がある郷として知られる。
弘誓寺は真宗のお寺で、那須与一の孫「愚咄坊」が開いたといわれている。本堂は宝暦十四年(一七六四)に完成、 国の重要文化財に指定されている。表門の瓦には、那須与一ゆかりの扇の紋が入っている。そして、歴代の住職は那須姓を名のり、与一の子孫といわれている。また、この東近江には弘誓寺というお寺が七つもあり、「与一ゆかりの七弘誓寺」と呼ばれている。
那須与一が扇の的を射抜く話は有名 で、絵本などにもなっている。福原の都を棄てた平家は西へ西へと落ち延びる。そして、義経の容赦ない追討が始まり、讃岐の国、屋島で陣を張ることになる。時は元暦二年(一一八五)夕刻。義経、曰く「今日は日が暮れた、勝負を決することは出来ぬ」と、すると沖の方から立派に飾った小船が一艘、漕ぎ寄せきた。七、八段(八十メートル前後)に近寄ってくると、船の中に は十八、九歳ぐらいの美しい女房が、「この扇を撃ってみよ」と、手招きをしているのが見える。
“与一鏑をとってつがひ、よっぴいてひやうどはなつ・・・鏑は海へ入りければ、扇は空へぞあがりける。しばしは虚空にひらめきけるが、春風に一もみ二もみもまれて、海へさっとぞ散りにける・・・”
夕日が輝いているなか、金の日輪を描いた扇がゆらゆら揺れて、波間に沈んでいく。それを見た両軍はやんや、やんやと喝采を送る。
しかし、大手柄を立てた与一もその後の活躍など分かっていませんが、信濃など各地に逃亡していた兄たちを赦免し、領土を分け与え、下野国における那須氏発展の基礎を築いたとされる。没年は建久元年(一一九〇)、山城国伏見において死去したといわれている。
そんな謎多い与一の墓が、京都・東山三十六峰月輪山麓、総本山泉湧寺の山内、即成院にある。その供養塔は、高さ三メートルもある堂々とした石造りの塔である。寺伝では与一が見事扇の要を射ることが出来たのは、阿弥陀さまに祈願し、体調を万全にして精神を集中したからであると伝えられる。
即成院は毎年十月に行われる、二十五菩薩お練り供養が行われるお寺で、京都の風物詩として取り上げられる有名な法要である。金色に輝く二十五体のお面をかぶって、地蔵堂から、本堂へ練り歩くもので、極楽浄土へと導かれる様子を表したものである。近年、 そのお面をかぶって歩く人材が少なく、 苦慮しているという住職の奥様の話が印象的であった。
平家物語の足跡をたどって歩くと、思わぬ偶然や予期せぬ事、新しい出来事に出会う。与一の墓にお参りし、極楽浄土への旅立ちを願う人で、即成院は今も賑わう。
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