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〔今回のテーマ〕家族、夫婦 戦後日本の家族や夫婦関係の変貌、女性の生き方を描いた、これからの 家族について考える基礎文献編その一
1). 変転著しい現代にあって歌手・松田聖子の離婚、再婚の話題もすでに旧聞に属することになってしまったが、
あのときマスコミが騒いだことのひとつに彼女や子供の姓がどうなるのか、といった話題があった。 歌手・松田聖子の本名は蒲池法子、結婚して夫の姓になり、子供をもうけて離婚、そして再婚。
ここで彼女には自分や子供の姓をどうするかという問題が生じたはずである。 家族すべてを同姓にしようとすれば、彼女が改姓するだけでなく、
子供を前夫の籍から抜き再婚相手の戸籍に養子縁組をして入籍するという手続きを経なければならない。 法的に親子になれば相続権を含む権利義務の関係が生じ、前夫との親権や面会権の問題なども絡んでくるし、
何より子供自身にとって自己のアイデンティティのもととなる名前が親の離婚再婚の度に変わるということは、
これはこれで大いに問題である。現在の法律は妻に経済力が無い場合つまり被扶養者である場合、 妻が有利になる仕組みになっている。
従って彼女のように戸籍上の名前のほかに歌手・松田聖子という職業上の名をもっている場合には、 改姓を強いる法律婚は現実問題として何等プラスになる選択といえないのである。
2). さて松田聖子について何が言いたいのかといえば、派手好きの芸能人ゆえの極端な例で、
国会議員の先生方が真摯な議論を闘わせた夫婦別姓論議など どこ吹く風でいずれそのうち別れるに決まっているといった無責任な揶揄でもなければ、
だから夫婦別姓を容認すると古き良き日本の家族が崩壊し、 ひいては日本の未来はないといった誇大妄想でもない。
正直な話、幸せで温かい家庭を築くことと夫婦の姓が同じかどうかといったことは、 現代の日本にあってはすでに別次元の問題となるほど現実は進んでしまった。
別姓を認めることによっていったい何が失われるのだろうか。
夫婦別姓を容認すれば、 離婚率が上昇し家族が崩壊してしまういったことがさも事実であるかのようにみえるのは、
われわれ自身の心の在り方、それを追認している現行の社会制度や法制度を前提としているからである。 むしろ問題の核心は、現実の家族の姿とわれわれ自身が内面化している家族観とのギャップ、
次に女性が結婚出産という問題に直面しキャリアを諦めて、 子育てが一段落ついて再就職しようとしてもスーパーのレジ係りのようなパート職しかないといった現実にある。
今日、夫婦別姓の要求が現れたのは、こうした現実の解消をコノテーションとしてもっているからなのである。
3). こうした現実は何も急に出来したものではない。 そこで、ぼくの祖父や父の世代に当たる戦争体験をもつ男性作家の作品を取り上げてみたい。
大正四年生れの小島信夫『抱擁家族』(昭和四〇年)は、
妻がアメリカ人(なんと名前がジョージ)との情事がことの始まりとなり、 家庭を修復しようとする夫の努力もなすすべもなく、
やがて妻の病死、家族の崩壊へとつながっていくという小説である。
カメの中に水があった。水がなぜ 気にかかるのだろう。なぜカメの中
の、とるにたらぬ水が、そこに在る、 そこにあると思えるのだろう。
この小説は自然描写が著しく少ないことが決定的な特徴であるが、 これを象徴しているのが、この主人公三輪俊介の述懐である。
「カメの中の水」というごく自然で日常的なものの存在感が主人公から失われつつある。 これは何も身の周りの自然だけでなく、家族や夫婦の倫理的関係を支えてきたもうひとつの自然、
ヘーゲル流に言うと家族の掟(オイコス)までもがすでになくなりつつある状況を描いた小説なのである。
アメリカ式の家を建ててまで家庭を立て直そうとする夫の努力は、 かつて確実にあったはずの自然な社会規範が消え去るという意味喪失に耐えようとする努力に他ならない。
おそらく従来から議論されてきたこの小説の「アメリカ」の意味もここにあるのだと思われる。
4). 大正六年生れの島尾敏雄『死の棘』では、
私=夫の情事のために妻が神経に異常をきたし憑かれたように 夫の過去をあばきたてる日々を十六年余にわたって書き継がれてきたいわゆる「病妻もの」である。
徹頭徹尾、妻の狂乱を描いているが、むしろ目につくのは私=夫の現実処理能力の欠如であって、 ことに錯乱した妻と一緒になって愛人を殴りつける場面などは私=夫の中で何かが壊れかけている、
むしろ狂っているのは妻よりも私=夫の方ではないのかということである。
春先の日なたぼっこのような気分になりながら、 私は自分が世間と肉ばなれしたおそろしい場所に居ることをさとらないわけには行かない。
この世間と肉ばなれした感覚、おそろしい場所ですくんでしまうふがいなさは、
かつて確固としてあった夫婦の倫理、 自然とされた男女関係の規範がフィクションに過ぎなかったのではないかという予感と
尚も家長たろうとする意識との間で引き裂かれた心理を示している。 島尾自身が特攻隊員として経験した極限の戦争体験によっても崩壊することのなかった自然な規範が
妻の錯乱という絶対の他者の出現により突如解体を始めたのである。 この小説を陳腐なお話から救い出し笑劇(ファルス)たらしめているのは
妻以外に外部をもたない私=夫の視点に他ならず、その描かれた世界が、 社会と乖離し現実感を喪失した夢の如き観を呈する所以である。
5). 先の世代にとっては自然な規範の崩壊と見えたものも次の世代にとっては自明な前提となる。
その意味でフォークソングやロックで育ったぼくらの世代の解説書として小倉千加子『松田聖子論』を取り上げておきたい。
聖子は、古い日本の女から逃走しようとしました。リアリティのない土地、
〈どこでもない土地〉で、聖子は女の子の都市の夢を歌いました。 そして、現実の松田聖子が〈田舎〉性を捨て去った後で
暮らしていける場所は日本の中にはもうどこにもなくなってしまったのかもしれません。
本書は松田聖子論といっても前半部は山口百恵論(ぼくと同年代)となっており、
七〇年代を百恵、八〇年代を聖子という記号で象徴させ、 彼女らの生き方やヒットソングの分析を通じて「松田聖子が歌手として参画した一つのシステム全体」、
経済成長が頂点に達した七〇年代から八〇年代にかけての 女の子の新しいセクシュアリティのコードの変貌をフェミニズム視点からとらえたユニークな、
著者によればパロディ本として異彩を放っている。
(園城寺執事 福家俊彦)
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