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〔今回のテーマ〕子供、社会


子供は社会の異常やゆがみをいち早く敏感に察知する「坑道のカナリア」であ る。壊れかけている子供たちと日本の社会について考える理論編その一

中島梓『タナトスの子供たち』
中島梓『コミュニケーション不全症候群』

1).
最近、とある福祉関係の会合にしばしば出席しなければならなくなって、 その日も、元小学校の先生にお話をお聞きする機会があった。 話を聞きながら、実に何とも言えないもどかしい複雑な思いに駆られた。 話題は「原因がつかめない子供の姿」として不登校や暴力行為、 「中学生は中学生らしく」「誇りをもって通える学校に」、 家族の絆を大切に「親が変われば子も変わる」といったお話であった。

たしかに「酒鬼薔薇事件」を引き合いに出すまでもなく、 今の子供たちを見ているとどこかが壊れかけていると実感する場面に出会うことがしばしばある。 しかし、こうした耳に入りやすい言説は、あまねく世間に流布しているが、 残念なことに家族の絆が深い浅いに係わらず不登校や暴力などは決してなくならない、 というこうした言説の現実に対してもつ無効性である。

それは万引き少年に他人のモノやお金を盗むのは悪いことだからと「お説教」するようなもので、 本当にモノやお金がなくて万引きする子供は現実にはほとんどいないのだから、 当の子供には全く的ハズレな言葉として、やっぱり「大人は判ってくれない」ということになるのがオチである。


2).
現代社会は選別競争社会である。 そこに生きなければならない子供たちの身の周りには幾つもの刪が張り巡らされている。 曰く、勉強のできる子できない子、スポーツのできる子できない子、もてる子もてない子等々。 子供たちは様々な抑圧とストレスを抱えつつ何とかして大人や社会が求める刪から弾き出されないようにしている。

だからこそ気付いてほしい。先生方のお話が、溢れんばかりの善意から発しているとしても、 子供たちとっては、またぞろ自分たちを囲い込む刪が設けられただけで、刪の内側に適応できる 良い子と刪の外側に放り出されてしまう子供たちをつくり出しているということを。 「戦争や殺人は悪だ」という類の教条化した言説に対しては誰もが正面切って批判し難いのと同様、 当事者性を欠いた言説が、子供たちを暗黙の内に規制する権力と化してしまうということに対する想像力の欠如、 その救い難き無感覚、無神経さにある。

かつて確固としてあった性別役割分担を核とする家族観や社会規範、右肩上がりの経済、 終身雇用などが崩壊しつつある現在、社会の異常やゆがみをいち早く察知するのは子供、 とくに少女たちである。彼らは炭坑夫が坑道の異常を知るため持ち込んだ「坑道のカナリア」なのである。 そして真っ先に被害を蒙るのも彼らである。だから子供の行動の「原因がつかめない」のならこれ以上、 古ぼけた大人の論理で子供を切り分けるのではなく、現実の社会や子供の姿から学ぶ努力をすべきである。 立派なことをやった言ったと自己充足している姿ほど、見ていて悲しいものはない。


3).
ところで「ヤオイ」って、ご存知ですか。「ヤオイ」とは「ヤまなし、オちなし、イみなし」からきた、 主として少女によって書かれ、少女たちによって読まれる「男同士の恋愛、性愛関係」を題材とする 小説やマンガのことだそうである。 森茉莉『枯葉の寝床』や竹宮恵子『風と木の詩』がヤオイものの先駆的な作品と聞いて 見当がついた方もおられると思うが、あらためて書店に行ってみると、 この手のジャンルの棚がちゃんとあり結構な需要があることに驚かされた。 なぜ少女たちは、こんなものに惹かれるのだろうか。

この疑問に真っ向から答え、現代の子供の抱え込んでいる状況を自覚的に言語化し、 社会と大人たちに訴え続けてきたのが中島梓である。

九一年に刊行された『コミュニケーション不全症候群』は、 ヤオイのほかに「おタク」と「ダイエット」(摂食障害)を コミュニケーション不全症候群の代表的症例として取り出している。

例えば満員電車を考えてみる。毎日毎日あの狭い空間に見ず知らずの人とスシ詰めにされ、 その人たちと人間的な関係を結べるだろうか。 一々そんなことをしていたら、こちらの神経がまいってしまう。 知り合いが隣にいれば、にこやかに話しもできるだろうが、 普通、われわれは感覚を閉ざして隣の人を家に帰れば親も子もいる人間とは感じないようにしている。 現代社会はコミュニケーションを閉ざすことができなければ生きていけない、 むしろそうであることが「正常」である世界となっている。 それは現代人が社会に適応するための自己防衛策なのである。

こうした「正常」な現代社会にあって競争社会を勝ち抜いていける者や 社会に違和感をもつことなく順応できる子供たちは別にして、 選別され競争を強いる現実を拒否して、自分だけの世界を作り上げてそこに立て籠もるおタク、 ダイエットという男性中心主義の社会がもつ身体的選別の基準に過剰に適応しようと 拒食症などの摂食障害をきたす者、独自の小説的世界に自分の居場所を確保しようとするヤオイ少女たちが、 無視できないほど増えている。


彼らは社会という共同幻想に適応しよう、他者に承認され愛されたいとするあまり自分を見失い、 その結果として適応不全に陥っているのである。

私たちは仲間、共同幻想の共有者たち、 自分のイメージを保持してくれる居場所によってはじめて自分を人間として感じることができる、 そういう存在であるのだ。

4).
昨年刊行された『タナトスの子供たち』は、前著の続編であり「ヤオイ」論の全面展開の書となっている。

ひそかに虐待され、自分を値打ちがないと思うようにあらゆるケース・スタディを通じて教育され、 自分の値打ちは大人たち、男たち、社会、 つまり自分を「選んでくれる」相手が決めることなのだと信じこまされてゆく少女たちには自衛が必要であった。

そう結局、少女たちによるヤオイの世界が男同士の性愛関係のみを扱っているのは、 少女たちが性の二重基準の存する社会にあって自己の均衡を保つため、 自らの女という「選別される性」を拒否し、 「愛」という美名のもとに散々吹き込まれてきたてきた恋愛神話をも 拒絶しなければ生きていけないと感じているからである。 そして、タナトス(死)へのベクトルを示すヤオイ、おタク、摂食障害の子供たちは、 アダルトチルドレン(被虐待児童)の姿にそのまま重なり、 その過剰適応のメカニズムはMPD(多重人格障害)とも近親性をもつというのが著者年来の卓見である。

いま何より重要なのは、画一化した規範を強制する社会には必ず適応不全に陥る人が生まれ、 むしろそれが「正常」であるということを皆が理解することである。

(園城寺執事 福家俊彦)






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