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〔今回のテーマ〕芥川賞、文学の現在 芥川賞を受賞しても次々と世間から忘れ去られていく当世の文学事情。 かけがえのない文学の復活を期待される新しい作家の試みを見る。
1).
一九四七年、サルトルは『文学とは何か』を発表した。
「書くとはどういうことか?なぜ書くのか?誰のために書くか?」で始まる本書の反響は
当時の思想界を席巻し始めていた実存主義と共に遙か海を越え日本にも押し寄せた。
ぼくの生まれる前の話である。
その後、世界は堅牢であったはずの社会規範や文化の枠組みが次々とその拘束力を失っていった。
文学の世界でも様々な文学理論が生まれ、
ぼくらの時代にはイーグルトンの同名の著作や浅田彰『構造と力』、
筒井康隆『文学部唯野教授』が読まれたことが思い出される。
思えばその頃より今日の文学の混迷と衰退は始まっていたのであろう。
いまぼくらがバルザックを楽しめるのも、文学が自己の足場をほじくり返し、
果てしない逡巡と自己撞着をきたす以前の、文学のもっていた「力」を堪能することができるからである。
現代という時代は、例えば古典主義とロマン主義、
あるいはマネやクールベの作品とサロン芸術の対立といった
明確で、ある意味では幸福な対立の時代は過ぎ去ってしまった。
現代芸術の状況は、一方では旧来の芸術の生産と受容を支えていた制度や
作品の善し悪しを決める共通のコードが喪失し、他方、それに代わる新しいコードが見出されていない、
あるいはかつてのように全一性をもったコードの成立自体に疑問が投げかけられるような
「宙ぶらり」の状態にある。その結果、芸術の世界は多くの小さな世界に分散し、
それらが併存する状況を呈してきた。文学の世界も一部の文学愛好家だけの閉じられた世界になりつつある。
2).
こうして日本文学は大きなジレンマに陥ってしまったと言ってよい。
現代の作家は文字を用いて表現するという文学の自律性の問題と「物語る」ことの狭間で、
語るべきことを失い、文学の「力」を確信しつつ創作することの困難に直面している。
かつて純文学は芥川賞、大衆文学は直木賞を頂点とする文芸の制度は確固として機能していた。
今では芥川賞の候補となるような作品はおもしろくない本の代名詞となり、
反対に直木賞はお金を払っても読む値打ちのあるおもしろ本であるとの定式が一般化している。
これは昨今の芥川賞の衰弱と候補作目白押しの直木賞の盛況さに明瞭に現れている。
何しろ芥川賞作家の奧泉光が『『我が輩は猫である』殺人事件』や『グランド・ミステリー』を書く時代である。
純文学と大衆文学の境界も創作側はもとよりミステリーやSF、
マンガまでも文学研究の対象とする今日の大学や文芸批評にあっては
敢えて両者を区別する意味は失われてしまった。とはいえ毎年二回の受賞作を出し、凡そ読まれず、
作家や作品もアッという間に世間から忘れ去られていく文学賞とはいったい何者なのか。
いまや芥川賞と直木賞は、どちらの候補になるかで純文学と大衆文学の区別が温存され、
受賞作であるから優れた作品であるとされる倒立した姿を呈している。
3).
今回は今年の一月に発表された第百二十回芥川賞の受賞作と二つの候補作を取り上げてみたい。
受賞作となった平野啓一郎『日蝕』は、
三島由紀夫の再来かと文壇誌はもとより一般マスコミも鳴り物入りで久々の若き新星の登場を言祝いだ。
一読してアレッこれが芥川賞、というのが正直な印象であった。
受賞理由が知りたくて生まれて初めて『文芸春秋』を買いに行ったぐらいである。
私は焚刑に処されていた。その苦痛に喘ぎ、快楽に酔っていた。私は僧であり、猶且異端者であった。
男であり、女であった。私は両性具有者(アンドロギユノス)であり、
両性具有者(アンドロギユノス)は私であった。
この作品の核心を占める両性具有者のイメージであればル・グィン『闇の左手』で描かれた
惑星ゲセン人の鮮烈なインパクトが想起され、
また発表当初から議論のあった森鴎外を彷彿とさせる擬古的で難解な文体については、
パスティッシュであるという批評家もいたが、
清水義範のように先行テクストを遊びながら異化さすという意味では明らかに異なっている。
むしろ全体の印象は日本でもベストセラーになったウンベルト・エーコの『薔薇の名前』に近い。
彼自身が受賞インタビユーで述べている通り作品自体に四重の構造を重層的に埋め込んで構築したという
精緻な作品を批評するのに、ルソーが『告白』で可能と考えたような
ロマン主義的な作品の「オリジナリティ」といった概念からは完全に決別しているとか、
バルトが〈作品〉の対極に様々な引用の織物として示した〈テクスト〉論、
あるいはクリステヴァが提示した「間テクスト性」の理論など、文学理論を総動員して、
多声的に読み解くことも可能であろうが、今にあっては陳腐である。
しかし、敢えて彼には「個」の確立から出発せざるを得ない文学と現実との懸隔を越え、
コード化された思想や理論の彼方にバルトが写真のもつ特有の力を「プンクトゥム」と呼んだように
文学固有の力を感じさせてくれる「純」文学を期待したい。
若合春侑『腦病院へまゐります』。
おまへさま、まうやめませう、私達。私は、南品川のゼエムス坂病院へまゐります。苦しいのは、まう澤山だ。
といった冒頭から挑発力ある擬古文的意匠を凝らした表題作は、
谷崎潤一郎の信奉者の作家とマゾの女との痴情小説の体裁をとった
谷崎文学へのオマージュともパロディーともなっている。
共に収録されている芥川賞候補作「カタカナ三十九文字の遺書」は現代文の小説で、
その分毒気が抜けているとはいえ、着想に優れた作者の資質を窺うに足る作品である。
今回、一押しのお薦めが赤坂真理『ヴァイブレータ』である。
本書はジャーナリストの端くれである三十一才の女性が主人公。
彼女は自分ではコントロールできない自分の内部から聞こえてくる「声たち」に囲まれ
「人間なにごとも体験」と試みたはずの「食べ吐き」も本物になってしまうという「どこにいても、
そこに百パーセントいる実感が持てない」日常を送っている。
ぬめぬめと正体のない閉塞感には、銀色に光るナイフこそがふさわしかった。
銀色に光るナイフで、背景にべったりと曖昧に一体化しそうになる自分の輪郭を切り出したかった。
後半はコンビニで知り合った二十六才のトラック運転手との東京から新潟への深夜のドライブが
ロード・ムービーの如く展開される。
音楽だけでなく彼女の内部の声やトラック無線など聴覚からの感性で押し切る表現力は、
むしろ若い頃の村上龍を思い出させ、近い将来『コインロッカー・ベイビーズ』に匹敵する
作品を書くことを予感させる。
(園城寺執事 福家俊彦)
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