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庚申待ち(続)
司馬遼太郎の講演での話。中国・唐の時代、それまでも西域から仏教は伝わっていたが、
玄奘(げんじょう)三蔵が決死の天竺行きを果たすまでは、中国には仏教の経典は存在しなかった。
その玄奘も古代インド語を理解しなかったので、中国にもたらせた膨大な経典には多く、
インドの民間信仰や他宗派の教えを交えたものが混ざっていた。
その後、これら経典はいっせいに中国語に翻訳されるわけだが、この頃に入唐留学した最澄や空海も、
この中から自分でよしとする経典を持ち帰ったのである。だから、真言宗などは、むしろバラモン教だという。
中国の道教に由来する庚申待ちの信仰も、玄奘が撰集したこれら仏教経典の一つとして日本に伝わった。
伝えたのは、入唐した三井寺の開祖、智証大師である。
玄奘三蔵撰・智証大師伝とされる『虻就虫寸白梅略』という経(『庚申経』)が、それである。
経によれば、三尸(さんし)の虫を封じ込めるのに秘儀あり、庚申の日の夜に虫の名を呼んで左手で三度、
胸を叩き、文殊菩薩に祈って頌(しょう)を唱える。
これを三年つづけると、三尸虫は死ぬと。当時、庚申待ちの秘儀は三井寺だけが持つ、
世間に流布しない大師の深い教えだから、秘蔵するように説いている。
さらに、時代は下って、江戸時代に隆盛を見る庚申講を促した『庚申縁起』も、
室町時代の三井寺の僧の作といい、
講の本尊として祀る青面金剛(しょうめんこんごう)像とともに三井寺ゆかりの修験によって全国にもたらされたという。
同じく江戸時代、参勤交代制が公布されると、にわかに東海道の往来は頻度を増し、
大津は東海道最大の宿場として賑わうようになった。
街道を往き来する旅人たちに求められていった大津土産の一つに大津絵があるが、
仏画に始まったこの民画も、題材の提供に本山三井寺とその別院が寄与したものと考えられている。
なかでも、現在、最も多く残されている大津絵仏画は青面金剛像である。
それは、とりもなおさず、近世に隆盛した庚申講の大きさを物語るものであり、
庚申の日は、夜明けを待つばかりでなく、
この日に受ける災厄はすべて青面金剛が除いてくれると信じられていた。
大津絵の描く青面金剛の左右の二匹の猿、二羽の鶏は、
猿は庚申(かのえ・さる)の申(さる)に通じるものとして、鶏は青面金剛の使いであることから。
ちなみに、当時の大津絵店の盛況ぶりが、一時、近くの三井寺別院、
近松寺(ごんしょうじ)に住まいした近松門左衛門の浄瑠璃の名作『傾城反魂香(けいせいはんごんこう)』に見られる。
又平と呼ばれる吃(ども)りの絵師の物語である。又平は大津絵の元祖といわれてきた。
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