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祖先崇拝
先年、評判になった映画の一つに『キタキツネ物語』がある。
原作者であり、この映画の企画者でもある高橋健さんは、
生物がそれぞれ生きる役割について「世代をつなぐ」ことであると喝破(かっぱ)した。
映画『キタキツネ物語』では、流氷に乗ってやってきた主人公のキタキツネが、
やがて子どもを産み、子の成長を守り抜いたのち、親離れの時期を迎えると、
子どもに自分の縄張りを与え、また流氷に乗って去っていく。
親は、子を産み、育て上げると、次の世代を子に譲り、立ち去る。
その子は、また子どもを産み、育て、世代を譲って立ち去る。
こうして世代をつないでいくことが、生物の世界だと。
地球に生命が誕生して三十八億年。
その間、一度として途切れることなく、それぞれの進化を繰り返しながら、いのちはつながれてきた。
もし、微生物に始まって現在の私に到るまで、進化の過程で、
たったの一度でもいのちのつながりが途切れていたら、いまの私は存在し得ない。
私には父と母、二人の親があって、父と母にもそれぞれ二人ずつの親があり、四人の祖父母も、そうである。
こうして私の親たちの数を数えていくと、十五代遡れば、東京ドームを一杯にして溢(あふ)れさせる。
十九代で、滋賀県の人口に近い数字になる。いのちのつながりの大きさ。
古代、わが国では、人は死ぬと天に昇り、死霊が生前の個性を失う頃(三十三年といわれる)、
死の穢(けが)れも去って浄化され、神格化した祖先霊の習合体として子孫を守ると信じられていた。
中国で儒教が重んじられるようになると、親への孝行が最も大切なこととされ、
生前はもちろん、死後も亡き親に対して孝を尽くさなければならない。
死者のために供養することが、一番の善行と考えられていた。
それは、祖先を敬(うやま)うことにつながっていく。
仏教史において日本の仏教を特徴づける一つに「葬式仏教」と呼ばれるものがある。
通夜、葬式。初七日から四十九日に到る中陰の、一週間ごとのお勤め。
一周忌、三周忌……三十三回忌、さらに五十回忌、百回忌を迎えるまでの年忌法要を、僧侶を請じて営む。
また、祥月命日、月忌法要、彼岸やお盆のお勤めなど。家に仏壇があり、位牌(いはい)を安置して祖先を供養する。
祭祀はすべて僧侶によって執り行なわれ、死者は丁重に弔われたのちも、数年ごとに供養されるのである。
寺でも毎年、永代にわたって供養がつづけられる。
話を、また生物学の話に戻す。生物は、いままで、
種(しゅ)の保存のために生殖
を行なってきたと考えられていた。しかし、遺伝子情報の読み取りが進んで、
実は、種(しゅ)の保存などという高邁(こうまい)なものではなく、自分自身の遺伝子を残したいというだけの、
エゴイスティックな熱情に基づいて生殖していることがわかってきた。
自分の子どもを残したい気持ちには激しいものがあるが、その子が子ども(つまり孫)を産むことには関心がない。
しかし、また子は子を産み、子孫はどんどん広がっていく。遡れば、大勢の祖先ができ、
すべてにいのちのつながりがあることに不思議を覚える。
しかし、もし、肉体的な死をもって人の終わりとするならば、人は遺伝子に従って自分の子を持つばかりで、
その集約に意味を感じない、とする考え方も成り立つ。
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