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東北地方における新羅神社(1)


東北地方の新羅神社は青森県に集中している。
奥州南部氏の勢力が及んだ岩手県や秋田県には残念ながら新羅神社は現存していない。 しかし、南部氏とのつながりがなかった山形県南部の東置賜郡には新羅神社が現存している。 更に福島県相馬地方の「相馬馬追」の武士団の中には新羅明神を信奉していた武士がいた。 また、東置賜郡からさほど遠くない宮城県柴田郡には新羅三郎義光や新羅系渡来人と縁の深い土地がある。


一、山形県の新羅神社

新羅神社は山形県東置賜郡高畠町にある。
神社については高畠町郷土資料館長山崎正氏が研究されており、 いろいろ説明を受けたり、研究論文をいただいたりした。


(1)東置賜郡高畠町について

高畠町は山形県南部の置賜盆地(米沢盆地)の東端にある。 置賜盆地は最上川の上流にあり、高畠町は最上川に沿った町の一つである。 宮城県や福島県から山形県の米沢街道へ通ずる街道の入口の町である。 この街道に沿って最上川上流の屋代川が流れている。 神社の前を通る街道は二井宿街道とか七ケ宿街道といわれる。
この地方の歴史は古く、石器時代から古墳時代に至る遺跡や古墳が多くみられる。 現在は葡萄をはじめとする果樹栽培、ホップの栽培、酪農等が盛んである。また、米沢牛も有名である。
高畠町へ行くには山形新幹線を利用するとJR福島駅から約四十五分である。 豊かな自然と田園に囲まれた美しい町である。


(2)高畠町の新羅神社

新羅神社は高畠町の北東にある「県立うきたむ風土記の丘」の北側の山の麓にある。 新羅神社のある山は街の北側にあり南側に向かって湾状の形になった地形をしているため、 中央部分がへこんでいる。 その山裾を東から西にかけてそれぞれ一m位の間隔で八幡神社・賀茂神社・新羅神社が存在しており、 それらの神社については源氏三兄弟にかかわる伝説が伝わっている。 新羅神社へ行くには一番東側にある源義家を祭る安久津八幡神社の前から国道113号を西へ千m程進み、 「かっちゃん食堂」の建物の先を右折して山の方に進む。 道路巾二〜三m、車輪の跡以外は雑草が生い茂る道。 湾状にへこんだ地形であるため左側は山、右側は田んぼである。 道の左側に人家があり、その庭先には道路に面して縦横四〜五mもありそうな巨大な岩がある。 中央部を彫り抜いて仏像が刻まれている。仏像の前を過ぎて四百〜五百m進むと道は行き止まりになる。 そこから先は山である。右手の田んぼが切れて山がはじまる手前の隅に三十〜四十坪の地がある。 小さな潅木や大きなすすきの穂など、雑草が生い茂っている。 そして雑草や潅木の中に背が低く太い石で造られた古い鳥居が見える。鳥居は湿地帯に埋り傾いている。 新羅神社の鳥居である独特の形をした鳥居である。高さは三〜四mであるが、 笠木と島木が太い石で重なっており、柱と笠木が同じくらいの太さがありグロテスクな感じがする。 台輪も太く大きいが、貫はそれほど太くなく角材の石である。遠くから見ると古墳の入口のような感じがする。 鳥居から十mくらい奥に石の小さな祠がある。これが新羅明神社である。 祠の裏には石造りの小さな祠や像があるが、雑草やつる草で覆われている。新羅神社の標識はない。 『高畠町史』の記事や「山崎館長の研究」がなければ新羅神社であることの判別はつかない。


(3)新羅神社の由来

『高畠町史』によれば、「古代の道を西にたどれば、山ふところにいだかれて 加茂明神旧祠(加茂山麓)・新羅明神祠に至る。八幡社と合わせて安久津三宮と称するものである。 源義家・源義綱・源義光をそれぞれ祭祀した宮を総称しての呼称である」。 高畠町のこの一帯の山の南面にはたくさんの古墳が発見されている。 安久津古墳群と総称されているが、東側の諏訪神社近くの清水前古墳群から始まり西方へ、 安久津八幡神社一帯の鳥居町古墳、その西側の加茂山洞窟古墳(加茂明神)・源福寺古墳(新羅明神)など 七つの古墳が並んでいる。安久津三宮の内で八幡神社は木造の神殿をもつが、 加茂神社と新羅社は石造りの小さな祠しかない。新羅神社の独特の石の鳥居については、 山崎氏の『郷土史私見』によれば「鳥居は時代が進むにつれて柱が細くなり、且つ転びがついてくる。 柱が太く転びがあるということから、このような鳥居(愛宕山の鳥居)は 越文化の影響があるのではあるまいか」という。我国の天皇の御陵の前に鳥居が立ったり、 伊勢神宮長官の墓所の鳥居など、墓所の前に鳥居が立つことをみても、この鳥居は源福寺古墳の鳥居であろう。 鳥居の下から後方にかけてたくさんの石が積まれていることも歴史の古さを感じさせる。

新羅神社のある一帯は「源福寺」という地名で、この一帯からは「源福寺古墳」と呼ばれるいくつかの古墳が発見されている。 山崎正『郷土史私見』によれば「源福寺から祝部土器が出土されていることから 神を祭るいわさか(磐境)の風習があったのではないかと思われる。 源福寺という土地は縄文末期から弥生式文化時代乃至は古墳時代あたりから生活が営まれていた」。 安久津古墳からは新羅系の環頭太刀とか、須恵器がたくさん出土している。

源福寺古墳と新羅神社が同じ年代なのかどうかについては資料がないので判らないが、源福寺というお寺があり、その 寺とセットになって新羅神社が祭られていた可能性が強い、或いは、 新羅系の渡来人がかつて住んでいたのかも知れない。しかし確かなことは判らない。

新羅神社については、山崎氏の研究になる『郷土史私見』には「新藤卯一郎氏の話によると、 源福寺は新藤家の守り神だそうである。氏のお話によると明治の頃、 新藤総本家、新藤幸一氏家と共に三家が一両ずつ寄進して現在の新しい堂を建立し、 以後毎年一度ずつツットに赤飯を盛る儀式による祭礼が行われているとのことである」と記録されている。

この新藤家について山崎氏に調査をお願いしたところ次のようなお返事をいただいた。
「新羅明神について何十年も前にお聞きした方にまたお会いしまして、 お話をしていただきましたが大筋においては前と同じだったようです。 その方は八十才近い方ですが、祖父の話(生きていれば百六十才との由)では 親族の人三人と石お堂を建て新米が穫れたとき赤飯を炊きナツトツット(藁包み)に入れてお参りした。 昔からそうだったということ。今の石の堂はお伊勢参りの道中で気に入った石堂をみつけ、 それと同じ形のものを地元の石工につくらせたとのこと。他の人々は没落したか転出した。 鳥居はその前からあったようで、自分の家の出自については全く知らないと言っておられました。 昔、源福寺というお寺があったところで、ことによると神社もあり、 古鳥居が残っていても不思議ではないのですが、それ以上は不明です」。

神社の脇の葡萄畑の主人の話では、幼少の頃母親から明神様と聞いていたそうで、 「弁天様(町にある弁天神社)の奥座敷で、時々弁天様が来られる」とも聞かされたと話していた。 意味はよく判らないが、何らかの交流があったのかもしれない。

出羽弘明(東京リース株式会社・常務取締役)






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