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福井県の新羅神社(2)


若狭地方の新羅神社

社伝によれば、朝鮮新羅城の新良貴氏の祖神「稲飯命」或いは「白城宿禰」を祭るといわれているが、 『神社誌』及び『遠敷郡誌』は「天日矛命の後裔が此国に留まり、其の遠祖である鵜茅葺不合尊、又は稲飯命を祀りしもの。 地名のシラキは日倉族の新羅人の住みしことあるにより起り、その祖神を祀りしとの説がありこれに従う」としている。 『新撰姓氏録』は新良貴氏を瀲武鵜葺草葺不合尊の男稲飯命の子孫とし、稲飯命を新羅国王の祖と伝えている。 『記紀』によれば、鵜茅葺不合尊(うがやふきあえず)は神武天皇の父とされており、 稲飯命は神武天皇の兄に当る。従って、神武も新羅(加耶)国と係わりがあることになる。

『福井県神社誌』には、「創立年代不詳。境内より縄文式土器の破片が発見されているから、 弥生後期(一、二世期頃)には祭祀が行われていたであろう」とある。当社は式内社に比定され、 『越前国内神名帳』には「従五位白城神」と記載されている。 更に、橋本昭三『白木の星』によれば「白城神社は延喜式にその名を記しており、 昔、朝鮮半島に栄えた新羅の人達が、はるばる日本海を渡ってこの白木の浜に上陸して住んだといわれる」と述べている。 この伝説は、一種の天孫降臨を示すものであろう。

『南条郡誌』によれば「古名考」に「或云白木浦の社乎、案南条郡今庄町に新羅明神あり是なるべし。 今庄も古く今城と書けり。此白城の誤転する乎。此町の東に川あり日野川と云。 此即古の叔羅(しらき)川なり。叔羅は即ちしらきなるべし」。 また『神明帳考証』には「吉従按白城宿禰を祭るなるべし。武内宿禰の孫也」と記載されている。

白城神社前の白城神社橋を渡ると大きな石の稲荷鳥居があり、白城神社の額が掲げてある。 鳥居の柱には「文政十三年庚寅歳四月上旬」と刻んである。その左手には樹高33mの黒松の巨木がある。 境内の広さはおよそ一千坪。鳥居の下を過ぎ、二十段程石段を登った台地状の場所の西側に拝殿があり、 たくさんの扁額が掲げられている。台地状の場所の右手奥に二の鳥居(石の稲荷鳥居)があり、 鳥居の下から十段程石段を登ると本殿がある。本殿は大社造のりっぱな建物。南向きである。 本殿の西側に末社等が祭られている。境内は白砂が敷かれ、清潔な感じがする。

神紋は菊。境内社は岩清水神社・春日神社・稲荷神社・蛭子神社・龍神社・日吉神社・伏見神社。

例祭は七月十五日。白木祭(新羅祭であろう)という。

新年祭・新嘗祭。

特殊神事として陰暦十一月上ノ卯日の前宵から餅を搗き、 これを薄い楕円形の小判形のものにして(古代神餅牛舌餅か)祭の当日暁方に神社へ参拝して撒く。 現今の新嘗祭に相当する。更には、能楽は白木祭の御能と称し有名である。能師は小浜方面より来る。

「当区において祭礼情景を観る時、往昔の自己の氏神祭礼に 官人・傭人等が賜暇を得て郷土に気休する時の事を想像される」(『敦賀郡神社誌』)

(3)信露貴彦(しろきひこ)神社(敦賀市沓見(くつみ)に鎮座)

沓見には久豆弥(くつみ)神社がある。地名の沓見は古くは久豆弥であったのであろう。 沓見は敦賀半島の付根の中心部にある集落である。円塚古墳・横穴式墳墓が数個所発見されている。 敦賀駅からは車で二十分位の場所にある。沓見のバス停の前を左折し100m程進む。 道路の突き当たりが信露貴彦神社である。神社のある場所は山裾で標高が高くなっている。 東北部には農耕地が続き、そのはるか遠くに山並が連なっているのが見える。 神社の左隣(南側)には前宮司の龍頭(りゅうとう)家の屋敷があり、 「龍頭一夫」なる標札が掲げてあった。夫人に話を聞いたが、大変親切に説明をいただき、帰る時には柿などを土産に頂戴した。 龍頭家の座敷には信露貴彦大神・久豆禰大神・八幡大神の三神の掛軸と供物や狛犬などが飾られていた。 今の宮司は前宮司の弟さんとのことであった。宮司の龍頭家は新羅系の家系であることから、 信露貴彦神社は新羅系の神社である証拠とされている。 「宮司の龍頭家は系譜に新羅国王族の末裔ということになっておる」(『今庄町誌』)

神社は三百坪位の境内であるが、境内地の境を区切る玉垣などはないので、 林の中に鳥居や神殿が立っているような印象を受ける。 神社の入口には信露貴彦神社と刻まれた背丈の高い石柱や二基の石灯籠・石の台輪のある大きな明神鳥居が立っている。

祭神は瓊瓊杵(ににぎ)尊と日本武尊。 社伝によれば推古天皇十年(602)の創建とされる。古代の新羅系渡来人とのつながりが深く、 敦賀半島の北端にある白城神社とも同系の氏族が祭ったものである。

「当神社は、同村の久豆弥(くつみ)神社の姫宮に対し男の宮と呼ばれ、 共に『白木大明神』といわれた」(『敦賀神社考』)

『敦賀神社誌』によれば、「按ずるに当社は往昔より白木大明神と尊称し、 推古天皇十年に創立し延喜式神名帳には越前国敦賀郡信露貴彦神社とあり。 元は当区南方字神所(かんどころ)・下の森地籍に鎮座したというが、 現地に奉遷の年代は不詳」という。

『福井県神社誌・遠敷郡誌・南条郡誌』には、「或いは今庄堺村荒井の新羅神社ならん乎」。 『古名考』「一説日野川の源である夜叉ケ池に古へ新露貴神社あり。 故に此河の渡所を白鬼女村と云は信露貴彦の訛なりと云へ共然らじ」。 『古名考書入』「合波堺村山上の社なり按に合波のは白鬚神社なるに 荒井は地名も古文書に見え社名も同じなれば寧ろ之を採る可き乎」としている。

『今庄町誌』では「敦賀郡松原村沓見にある信露貴彦(しろきひこ)神社は、 南条郡今庄町今庄の新羅神社・白鬚神社、堺村荒井に鎮座する新羅神社と同じである」と記載している。 従って、祭神も新羅明神(素盞鳴尊)であったであろう。神社は拝殿と本殿からなる。 拝殿及び弊殿は妻入り神殿、木造瓦葺、白壁造りで庇がつけられているが、建物は相当古い。 拝殿の奥に七.八段の石段があり、その上の台地状の場所に本殿がある。 本殿のある台地は、石垣が積まれている。石段を登った所に四脚門(これも妻入り、左右に木造の透塀がある)があり、 その数メートル奥に本殿がある。簡素ではあるが千鳥破風造の屋根をもつ木造建築である。 瓦屋根。境内社に神明社・猿田彦神社・金比羅神社・山神社がある。

例祭は五月四日。祈年祭三月二十一日。新嘗祭十一月二十三日。 五月六日の例祭日に行われる「王の舞」は天孫降臨の様子を表現したものともいわれている。 沓見祭といわれ、古代そのままの神事が行われるという。

金達寿は『日本の中の朝鮮文化』の中で「信露貴とはもちろん新羅(しらぎ)ということで、 彦とはその男ということであろう。新羅を白木(しらき) ・白城(しらぎ)としたのはいゝほうで、 信露貴とはずいぶんめんどうな字をあてたものである」と記述している。

当神社も、明らかに渡来系の新羅神社であるにもかかわらず、祭神が天孫邇々芸命(高天原に天降った神)である。 邇々芸命は大山津見神の娘・木花開耶姫(神吾田津姫)と出会い、 海幸彦・山幸彦(天津日高日子穂手見命)など三柱の子神を産むのであるが、山幸彦の子が鵜茅葺不合尊であり、 孫が稲飯命である。天日槍の後裔が新羅国王の祖として祭ったということを示したものであろうか。

出羽弘明(東京リース株式会社・常務取締役)






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