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福井県の新羅神社(3) 若狭地方の新羅神社 二、美浜町菅浜に鎮座する「須可麻(すかま)神社」 敦賀半島の西側にも、新羅系の有名な神社がある。菅浜(すがはま)は、元々は須可麻神社の須可麻であったものが菅窯→菅浜と変わったようである。スカとは古代朝鮮語で「村」を意味するという。
丹後街道から敦賀半島に入り車で十分位。先へ進めば丹生や白木の集落である。敦賀半島の西海岸は若狭湾に面している。神社の神殿は石垣の上にあるが、正面の鳥居の前に大きな社務所と集会場がある。本殿と拝殿からなる。本殿は木造銅板葺流造である。拝殿には「式内須可麻神社」と「麻気神社」の扁額が掲げられている。境内社に稲荷社・大川社・日吉社・世永明神社・広嶺社・塩竈社などがある。
村は半農半漁の集落。当社は式内社で、祭神は正五位「菅竈由良度美(すがかまゆらどみ)」天之日槍七世の孫、即ち菅竈明神といわれる。
『古事記』によれば、菅竈由良度美の孫が息長帯比売命(神功皇后)であるとしている(応神天皇の条)。神功皇后の父親に当る息長宿禰王は丹波の高材(たかき)比売の子で、息長氏の始祖に当り、古代近江の豪族の一人である。息長氏は湖東の坂田郡息長村を中心にして勢力をもっていたといわれている。
「新羅からの帰化人である由良度美は叔父の比多可と夫婦になって菅浜に住んだとの記録があり、其の子孫になるのが息長帯比売命(後の神功皇后)である。それ以前にも垂仁天皇の三年に新羅の皇子『天之日矛』が菅浜に上陸して矛や小刀、胆狭浅(いささ)の太刀などを日本へもってきた」(『美浜ひろいある記』)といわれている。
社伝によれば式内社の古社といわれ、『若狭国神階記』に「菅竈明神」とある。明治四十一年世永神社、素盞鳴命を祀る広嶺社・志波荒神を祀る塩竈社の三社を合併。金達寿『日本の中の朝鮮文化』には「若狭文化財散歩」の文章が引用されている。「・・・・・・菅浜の南の砂浜は神功皇后の子・応神天皇が太子のとき、こゝの浜でみそぎをされ敦賀へ移られたと伝えられ新羅人が漂流して土着したとも伝える。菅竈が菅浜に転じ、焼窯の神様で須恵器などを造った帰化人の集団が丘陵に住み着いたところでもあるという。・・・・・・」
なお、併祀の一つ麻気神社は近江国牧谷(牧野町牧野)からの勧請といわれる。例祭は五月二日。
三、小浜市下根木(しもねごり)に鎮座する白石(しらいし)神社 若狭湾に沿って敦賀市、美浜町と続き、その西側に小浜市がある。遠敷郡(おにゅう)といわれた地方である。白石も新羅からの転化であるといわれている。新羅は白木・白城・白子・白石な どと変わる例が多く、ひどい例は今庄町のように、新羅→ 白城→今城→今庄となり、新羅川が日野川に変わっている。当地方には新羅人和氏の一族を始めとする新羅系渡来人が多く住んでいた。
JR小浜線の東小浜駅の少し東側を遠敷川がほぼ南北に流れている。川は滋賀県境にある百里ケ岳から発して小浜湾に注いでいる。川の中流の下根来という村に白石神社がある下根来(ねごろ)の村に至る道は左手の遠敷川以外は両側が深い山に囲まれている。
小浜市から国道二七号を滋賀県今津方面に向かう。遠敷郵便局前の信号を右折する。古い家並のすぐ右手に若狭媛神社がある。この神社から約一・五km、遠敷川の清流が巨巌に突き当たり淵をなすところに「鵜の瀬」なる場所があり、「鵜の瀬大神」を祭っている。この巨岩の上に若狭彦の神(彦火火出見尊(ひこほほでみ))と若狭姫の神(一の宮夫婦神)が降臨されたといわれている。二羽の白い鵜が二神を迎えたことが、地名の由来といわれている。彦火火出見尊は彦火火明命(ひこあめのほあかり)であり、山幸彦である。素盞鳴尊の子神で、大和の最初の大王といわれている饒速日(じぎはやひ)尊である。この鵜の瀬は東大寺二月堂「お水取」 行事の源泉である。このお水取の遠敷神社の遠敷明神は、若狭姫神社の祭神・若狭姫神(豊玉姫命)(山幸彦の妃)である。奈良・東大寺二月堂の右横手にも遠敷神社が奉祀してある。東大寺の産土神となっている。
辛国(からくに)(韓国)神社や、東大寺近くの漢国(かんご)神社(祭神は新羅系の園神と韓神)とも関係が深いといわれている。根来地方に祖神の白石明神をいつき祭って住み着いた人々は、若狭湾や敦賀湾などから入植した新羅・加那系の渡来人であったといえる。
「若狭地方における豪族の中で目立つのは秦氏の系統である。若狭の木簡には秦人の名が多くみられる。
<美々里秦勝稲足二斗、若狭国三方郡耳里秦日佐得島御調塩三斗若狭国山郷秦人子人御調塩三斗>などである。この秦氏が山城の太秦に根拠をもつ秦氏と血縁関係にあったのかどうかは不明であるが、『続日本紀』延暦十年(七九一)九月の条に若狭国で尾張・近江などと共に牛を殺して漢神を祭ることを禁止している記事をみると、牛を殺して漢神を祭るのは渡来人の風習であったので、秦人の中には朝鮮から渡来した人々や子孫が含まれていたことは間違いない」(『小浜市史』)。
ここから南へ一五〇m。「おにゆかわ」橋を渡ると左手に「白石神社」がある。『若狭彦神社由緒記』によれば「白石神社は若狭彦神社の境外社であり、小浜市下根来白石鎮座する。祭神は若狭彦神、若狭姫神を『白石大神』または『鵜の瀬大神』とたたえて奉祀。若狭彦神社創祀の社と伝えるが、年代は不詳」と説明している。境内には椿が群生し、樹高十二・三mの大木は小浜市の天然記念物。
「瀬にしみて奈良までとどく蝉の声」(山口誓子)の句碑がある。
白石神社の本殿は小屋状の建物に覆われているので、一見して神社の建物が見えず異様な感じがするが、外部を覆っている建物の中に入ると、庇に接して木造の彫刻を施した鳥居があり、「白石大明神」の額が掲げてある。本殿の柱などにも手のこんだ彫刻があり、りっぱな社殿である。境内地は広く千坪位ある。前面は遠敷川であり、神社の森の背後は深い山につながっている。遠敷の里は小浜から保坂・今津・大津を経る若狭路、小浜から朽木・大原を経る鯖街道、更には周山街道など、都とのつながりが深かった。当地方は滋賀県の
今津町や白鬚神社で有名な高島町も近い。
隣接の上根来村の社についても同由緒記は、「氏神の御社については、祇園牛頭天皇の由、昔より申伝候。この神の勧請の時分明ならず。更に、本堂本尊地蔵尊也、右地蔵安地の時代不レ知・・・・・・老人口伝云上下宮白石影向後宮居レ堂……建立の由二月毎年勤三修正会於二祇園・・・・・・宝前一毎年五月五日大般若転読す。延宝三年九月廿日別当神宮寺桜本坊秀俊」と記述しており、上・下の根来村が新羅系の神と縁が深かったことが推測される。
下根来から川に沿って神宮寺、若狭彦神社、若狭姫神社(若狭一の宮と呼ばれる)が存在する。
「これらの神社はみなその根は一つで、どちらも根来の白石(新羅)神社からでている」(金達寿『古代朝鮮と日本文化』)という。
この地方には他にも「白石神社」が多くあり、特に上中町熊川村熊川字宮ノ下の「白石神社」は「元々は白石大明神、或いは白石明神社と称し、三社相並べり。境内の白鬚神社は近江より勧請せりと伝わる」(『遠敷郡誌』)。
上中町河内の白石神社について『若州管内社寺由緒記』によれば、「此明神白神楽谷と申所に御座候」とある。白神楽谷は何と読むのか分からないが、しがらく又はしがらき谷かも知れない。そうだとすれば、しらぎからの転化ではないだろうか。
一方で、小浜市は園城寺や源氏との係わりがみられる。中世の小浜市において、寺門(園城寺)と山門(延暦寺)の争いがあり、園城寺が四十町の免田を認められ、賀斗(加斗)荘とし、加納の名目で荘田を拡大したのに対し、延暦寺も菅浜浦や志津浦に進出していた。十世紀のことである。
出羽弘明(東京リース株式会社・常務取締役)
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