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福井県の新羅神社(4) 若狭地方の新羅神社 更に、小浜市の中心街に八幡神社があり、八幡神社の背後の山には後瀬(のちせ)山城(武田城)跡がある。後瀬山城は若狭の守護武田信賢(のぶかた)が、小浜市青井山に築いた城を、後に若狭武田氏の五代武田元光が後瀬山に移したものであるが、信賢は安芸武田氏の祖であり、弟の国信が若狭武田氏の祖となる。いずれも新羅(しんら)三郎義光の子孫であり、甲斐武田氏と同族である。この八幡神社には禁制状なるものがあり、「当社并限末社新 羅敷地競望事」(天正十三年・一五八五)と書かれている。末社に新羅神社なる社があったのであろう。神社の由緒は「神護景雲三年九州宇佐八幡から勧請」と伝えられている。
今庄町の新羅神社(2) 越前今庄町の新羅神社については既に本書にて記述したが(本誌九十二.九十六号)、その後訪問を重ねている間に明らかになった事柄を補足したい。
何回も訪れて感じたことは、「今庄町を含むこの地域一帯は古代出雲地方と同様、日本海流に乗って朝鮮半島や大陸から渡来した多くの人々が居住していた。特に新羅系の人々のそれが多かった。従って、今庄町の新羅神社や白髪神社はその人々が祖神廟として祭った社が後世に残ったのではないだろうか」ということである。もしそうだとすれば、神社は"しらぎ神社"と呼ばれて崇拝されてきたのではあるまいか。
越前地方は、近江・北陸地方を含む継体天皇の支持基盤で あった地方であり、応神天皇と係りの深い敦賀、或いは継体天皇と係りのある越前地方は、半島や大陸との往来で渡来文 化が盛えた同一文化圏であった。継体天皇の基盤であった三国湊は今庄から流れ出る日野川の河港に当る。かつては三国湊と福井武生にあった府中を結ぶ舟運が盛んであり、鯖江には白鬼女津(しらきじょのつ)があり、北陸道の要所であった。継体天皇の母・振姫も今庄から木ノ芽峠を越えて近江との往還をしたであろう。そして、この地方は継体天皇を中心とする還日本海文化があった(『今庄の歴史探訪』、『福井県神社誌』ほか)。
(一)しんら神社としらぎ神社 日本の各地にあるいくつかの新羅神社を訪ねてみたところ、近江国大津にある園城寺(三井寺)の新羅(しんら)神社と何らかのつがりをもつ神社、即ち園城寺から勧請されたり、新羅三郎義光やその子孫、或いは三井寺の開祖・智証大師円珍などとの関係がある。神社はいずれも現在、"しんら神社"と呼称されている。
一方、近江の園城寺と直接のつながりが無いと思われる新羅神社は"しらぎ神社"と呼ばれており、それらの神社には新羅ないし新羅系渡来人に係る伝承が残っている。中には、神功皇后の三韓親征説話に係るものも多い。
今庄町の人々に新羅神社の呼称を尋ねてみると、ある人は「もちろんしらぎ神社です」、またある人は「しんら神社です」という。いろいろと聞いてみると、古くは「しらぎ神社」であったが、朝鮮の国を低くみる風潮の中で、「しんら神社」という呼び方に変わってきたものであると教えてくれる人がいた。上田正昭『古代史のなかの渡来人』は、白鳳時代の「七世紀後半の持統天皇の頃になりますと、だんだんと朝鮮の国(当時は統一新羅)を一段と低くみるように日本の支配者層は変わってくる」と述べている。社伝の『新羅大明神御縁起』にみられる如く、同社が智証大師や近江国大津の園城寺(三井寺)との関係が後世にでき、三井寺の同社がしんらと呼ばれる時代になり、今庄の社も呼び名が変わったのかも知れない。或いは三井寺の新羅社と源氏の将・新羅三郎義光が係った時代の十一世紀頃にはしんらと呼ばれていたのかも知れない。「しんら」の方が朝鮮語に近く、「しらぎ」の呼称は日本語的に思えるので、これらの呼び名の変遷は不思議な感じがする。
(二)新羅神社の由来 『今庄町誌』によれば『新羅神社縁起』として次のように説明している。
「清和天皇の御宇貞観元己卯年(八五九)に智証大師が大唐国から帰朝の途、海上で暴風に遭い船はまさに覆没しようとするので、長い時刻を素盞鳴尊に祈請していると空中から御声があり"智証憂うること勿れ、間もなく風波は鎮靜するであろう"と宣わせ給うのである。智証は不審に思い"斯く宣わせ給うのは、何神なる哉願くば教え給え"と申し上げると、やおら御影を現し"吾こそは往昔のこと、新羅国征服の神なり"と宣わせ給うのである。・・・・・・後世に至り越前国燧山に新羅大明神を建立し、御神体を素盞鳴尊となして奉還することになったのである」
『新羅神社略記』(加藤前宮司夫人よりいただいた)に、『新羅大明神縁起』によれば・・・・・・天安二年(八五八)円珍(智証大師)が高麗国の港より帰国の折、・・・・・・円珍が諸天善神に祈ったところ、一大神の姿が船上に現成し・・・・・・。後貞観元年(八五九)大師帰命観想の際、神勅によって、その大神が大和(日本)より渡った新羅国の守護神(素盞鳴命)なりとのお告を受け、自ら神影を刻んだ。その神像が今日に伝わる当社の御神体である、と説明している。
また一説には、その名から新羅三郎義光の霊を祀るとも言われているとあるが、これは後世に加わったものであろう。
更に原文をみると、
「抑此神明者御垂迹登申志新羅・百済・高麗国の崇廟之大祖に亭盤古之昔より崇敬し奉るに爰。我朝人王五十五代文徳天皇之御宇、・・・・・・円珍僧都入唐す。・・・・・・智証大師に宣旨ありて重禰て加土に求法しほまれを唐土に阿け年を経て高麗国乃湊
より帰船の折ふし・・・・・・」とある。
従って、原文によれば新羅大明神は、新羅・百済・高麗国の祖神を祭る廟であったと記しており、朝鮮半島とつながりが深いことを示している。新羅系の人々ばかりでなく、高麗系や百済系の渡来人も共に祭ったようである。
出羽弘明(東京リース株式会社・常務取締役)
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