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京都府の新羅神社(4)


高原寺新羅大明神の軸島谷宮司の社務所の郷土館には、大宮売神社境内から出土の遺跡(土器、勾玉、鉄剣等)と共に、高原廃寺(廃村となった高原村の観音堂)に祀られていたという新羅(しらぎ)大明神と書かれた掛け軸が飾られている。竹野郡高原寺遺物とある。高原寺の場所は、はっきりしていないとのことであった。また、梅本政幸『丹後の国』によれば新羅大明神は、これも廃村となった表(おもて)山の八幡社にも祀ってあったという。

なお、金達寿『日本の中の朝鮮文化』の“島谷宮司の話では、、大宮売神社と溝谷神社の中間にあたる竹野川中流の荒山、新町にかつては新羅神社(廃社)があった”とある記事について島谷宮司に尋ねたところ、「父は九十七歳で他界しました。廃社となった神社については、父の存命中に聞いてはいたが、その跡地を訪ねたことはない」とのことであった。現地へ行ってみたが、道路から一〇〇m位東側が雑草の茂る深い山になっており、跡地を探すことは不可能であった。


四、籠(この)神社

当地には日本の古代史上、欠くことのできない神社がある。元伊勢籠神社と真名井神社。加佐郡大江町の元伊勢外宮・元伊勢内宮等の神社である(大江町は元伊勢籠神社のある宮津市の南、源頼光の大江山の鬼退治伝説で有名な場所である)。

籠神社の祭神、彦火明命即ち、彦火火出見命、山幸彦、『紀』に記載の饒速日(にぎはやひ)命、素盞鳴尊の子神であり、神武天皇以前に大和の国を治めていた大王である。従って、大和の地方を天孫族より前に統治していた王である。このことは、出雲族が支配していたということである。

当地方からは弥生時代後期の遺跡が多く発見され、大宮売神社でも明治十二年に二の鳥居の下から壷や曲玉・勾玉が発見されたが、これらの品は祭事の跡(三世紀頃)を物語っている。大宮売の神は巫女(シャーマン)であり、曲玉や勾玉は木の枝につけて祈祀の道具とした。大宮は大国の意である。大宮売神社の周囲は濠となっていた。

籠神社は式内社。奥宮(境外社)の真名井神社の祭神は豊受大神・天照大神・伊射奈岐大神・伊射奈美大神・罔象(みずはのめ)女大神。真名井神社(古称吉佐宮(よさのみや)宮)等(別称は比沼真名井、元伊勢大元宮等)。

本宮(この)(下宮)籠神社(別称元伊勢大神宮、丹後一宮等)
主神 彦火(ひこ ほ)(あかり)命(丹波国造の祖神)
相殿 豊受大神・天照大神・海人・天水分神

社殿の建築様式は伊勢神宮とほぼ同様の唯一神明造であり、古来三十年毎に御造替の制。心御柱や棟持柱があり、特に高欄上の五色の座玉は伊勢神宮正殿と当宮以外には見られない。また、例祭は第四代懿(い)徳天皇の四年に始まった祭儀・御生(みあ)れの神事に始まり、藤祭と称したものが、欽明天皇の御代に賀茂神社の賀茂祭が葵祭と称された時、当社も葵祭と変称した。

『元伊勢籠神社の小冊子』によれば、当社は神代と謂れる遠い上代、今の奥宮の地・真名井原に匏宮(よさのみや)と申し豊受大神を祭ってきましたが、崇神天皇の御代に天照皇大神が大和国笠縫邑から御遷座され、豊受大神と共に祭ることとなり、これを与佐宮(吉佐宮)と言った。

その後、天武天皇の白鳳十一年与佐宮を籠宮と改め、祭神を天孫彦火火出見尊とし、元正天皇の養老三年本宮を奥宮から現在地に遷した。新羅系であることを明確にしたものであろうか。

元伊勢籠神社その後、天武天皇の白鳳十一年与佐宮を籠宮と改め、祭神を天孫彦火火出見尊とし、元正天皇の養老三年本宮を奥宮から現在地に遷した。新羅系であることを明確にしたものであろうか。

真名井神社の境内には真名井川の起点があり、天(あま)の真名井の水や天香語山、天香語山旧参道、イザナギ・イザナミ大神の磐座や天照大神の荒魂の産湯である産盥(たらい)等がある。また奥宮は背後が神体山となっている。

これを統治した首長は海部(あまべ)であり、海部は氏神豊受大神を祭祀して、漁撈・農耕・航海・機織・酒造等の優れた技術を持っていたといわれている。

元伊勢といわれる籠神社の神主家は古来海部直(あたえ)と呼ばれ、大化改新以前は丹波国造家、大化改新後は祝部として奉祀、現当主は八十二代目に当たる。この海部宮司家が所蔵する海部氏系図は平安時代初期の書写で、現存する日本最古の氏系図で国宝。

この「海部氏系図」の祖先の名前が「尾張氏系図」とそっくり同じであるといわれており、両者は共に豊後(大分県)の海部(あま)郡方面にいた安曇系の海人の出であったろうといわれている。海部氏は丹後の籠神社の神官を務め、尾張氏は熱田神宮の神官を務めている家柄である(澤田洋太郎『幻の四世紀の謎を説く』)。元々は航海と漁撈を主としたアマツミ族で、マが省略されアヅミとなったもので、海の神を奉祭する海人達であった。

『丹後風土記』には、「当国は往昔天火明神等の降臨の地なり。・・・・・・往昔豊受大神天降り、当国の伊去奈子(いさなご)嶽(足占山)に坐ます時、天道日女命等、大神に五穀及び桑蚕等の種を請い求めます。すなわち其嶽に眞名井(まない)を掘り、その水をそゝぎ、水田陸田を定め、……秋のたりほやつかいと、こゝちよかりき。大神これを見そなはして、・・・・・・『あなに之し、おも植えみし、田庭』と詔たまふ。然してまた大神は、高天原に登りたまふ。故云ふ田庭なりと。」

出雲の勢力がいつ頃から進出してきたかは明らかでないが、亀岡と舞鶴に出雲神社があり、久美浜の神谷神社に八千矛神、即ち大国主命を祀り、加悦(かや)の大虫神社に大己貴命(大国主の別名)を祀り、他にも出雲系の熊野神社や須賀神社がある。


五、出石神社

出石神社
但馬に属する当地方は天日槍族、出石族などの新羅系渡来人の一大居住地であった。

岡本久彦編著『出石の歴史散歩』によれば、出石町の地に確実に人々の足跡がたどれるのは、今のところ弥生時代のごく初めの頃までであり、縄文時代の石斧なども出土しているが、詳しいことは判明していない。

弥生時代になると、旧に土器や石斧が多く認められるようになり、こけは弥生時代には大陸の進んだ文化と人々が入ってきて、金属器の使用とコメ作りが列島に定着した時期であり、弥生時代の古い時期のものが宮内で発見されている。

出石は『書紀』では新羅の王子天日槍定住の地として、『風土記』は天日槍が各地を遍歴する間のその地方の神々との対立を描き、やはり天日槍があくまで出石に住んだとしている。加えて天日槍の子孫の繁栄を出石の神々の婚姻に結び、はては畿内勢力との血族、従属と結んでいる。新羅の王子天日槍がはるばる海を渡り日本列島に上陸し、全国を遍歴、この但馬に居を定めたことが『記紀』や『風土記』に書かれているが、天日槍は実在の人物ではなく、集団、それも当時としては抜群の文化を保有し、軍事力を備えた「渡来者集団」と考えると理解が容易である。彼らに係る地元の伝承の一つ、泥海であった但馬を瀬戸(津居山)を切ることによって、一気に出現させたとする国造りの伝説などは、その優れた技術や文化を象徴的に表わしたものであろう。

私が訪ねた出石神社は、伝統と格式のあるりっぱな神殿の建物や鳥居が、杉の大木に囲まれた中に静かに建っていた。神社の森全体が荘厳であるにもかかわらず、参拝客が誰もいなかったのは、但馬の国造りの神を祭る神社としては寂しい。

宮司婦人に神社の由緒をいただき、お守りを受け取った後で財布をホテルに忘れてきたことに気がついてお詫びをしたところ、厄除御守を無料でくださった。そして「静かな神社ですね」と申しあげたところ、「こんな貧乏神社ですから」と答が返ってきたが、関東にある高麗神社などの賑わいと比べると地理的理由があるにしても、もう少し参拝の人々があっても・・・・・・と感じた。


出羽弘明(東京リース株式会社・常務取締役)






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