横光利一と長等小学校
琵琶湖の水は瀬田川から流れ出、宇治川、淀川を経て大阪湾に注ぎます。
では、琵琶湖と若狭湾とを運河でつなげば、日本海と太平洋を結ぶ水運ができるとする考えは、
古代からありました。現実に、最初に手がけたのは平清盛でした。
しかし、深坂峠(西浅井町)の堅い岩盤に当たって掘削を断念します。
その後、豊臣秀吉も京の豪商、角倉了以らも計画を失敗、伊能忠敬も測量をしています。
ついに日本海と太平洋は結ばれませんでしたが、明治十八年、琵琶湖の水を運河によって京都にもたらし、
生活用水の確保や舟運、水力発電などに利用しようとする琵琶湖疏水の工事が始まります。
計画を立てたのは田辺朔郎。当時の公共事業費の約半分を使うという国家の一大プロジェクトは、
東京帝国大学の卒業論文を手直ししたものでした。
疏水の、三井寺観音堂をくぐる長等山トンネルをはじめとする三つの隧道を含め、
全長十一キロメートルを、全線、手掘りで完成させたのが、五年後のこと。
つづいて、明治四十年には第二疏水工事が着工されますが、
翌年、この土木技師の一人として、作家横光利一の父親が家族を連れて赴任します。
横光利一は、大正の末年から昭和の初めにかけて『頭ならびに腹』『ナポレオンと田虫』『春は馬車に乗って』
などの作品で「新感覚派」文学を展開し、一つの時代を画した作家です。
同じ思潮に川端康成や今東光があります。既成の文学に対して、
主観的で直観的な最も強い感受性と刹那の感覚の点出を、
それまでにない新しい語彙と詩とリズムとで表現したものでした。
主著に『日輪』『上海』『機械』『旅愁』。「小説の神様」とも讃えられました。
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横光が疏水工事に携わる父親に連れられて大津に来たのが、小学校五年生の中頃。
いまの長等幼稚園の東側の二階屋(三井寺町)に住み、長等小学校(大津市西尋常小学校)に通いました。
遊び場は、もっぱらが三井寺の境内や疏水のほとりで、卒業記念に桜の植樹を長等公園斜面にしています。
二十年後、自分が植えたこの桜を彼は見に訪れていますが、残念ながらなくなっていました。
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第二疏水取水口 |
父親の仕事の都合で各地を転々とした横光にとって、
三井寺近くに住んだこの時代をふるさとと考えていた様子があって、
紀行文『琵琶湖』などの文章に、それがうかがえます。また、その一節に、
「私の友人の永井龍男君は…近江の坂本といふ所が好きであつたといふ。
…坂本で感心をするなら大津の疏水から三井寺へ行くべきであると私は云つた」ともあります。
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横光利一住居のあたり |
横光が卒業した長等小学校は、明治六年開校という、学制発布後の、滋賀県でも最も古い公立小学校の一つです。
さすが、百年を優に超す伝統校の風格を持つ小学校。当山の石垣の真向かいに建ちますが、
その校歌(作詞/和田すみ子、作曲/安井万治)に「三井寺」が歌われているのです。
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長等小学校 |
春は校舎の窓近く
輝き匂う山桜
秋は疏水に影映る
三井のお寺の照り紅葉
いつも楽しく美しい
平和のしるし 長等校
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