崇福寺のロマン
三井寺の最寄り駅の一つ、JR湖西線西大津駅を「大津京駅」に改称しようという運動が始まりました。
大津京は、いまから1300年前に当寺の北部に天智天皇によって営まれた都。
いまだ謎が多く、「幻の大津京」とも、みぎわまた琵琶湖の汀が現在より都に接近していたため、
「さざなみの大津京」とも称されます。
事実、西大津駅裏からは大津宮で使用されたと思われる木簡も発見されています。
| |
JR大津京駅(?) |
三井寺は、その創建が大津京に由縁するお寺であることはよく知られています。
都を開いた天智天皇と、その弟天武天皇、天智の娘、
持統天皇の産湯に使った井戸(閼伽井)(あかい)があることからの寺名の由来。
また、天智と天武、天智の息、弘文天皇(大友皇子)の勅願寺であり、
弘文の子、大友与多王が父の荘園を献じて建立したこと。
その後、智証大師が比叡山の別院として復興するまでは大友村主(すぐり)家の氏寺であったことなど。
| |
天智天皇を祀る近江神宮 |
ところが、大津京の所在地は、錦織(にしこおり)に宮跡が発見されるまで、長らく論争の的にありました。
それまでの論争の重要な史料の一つに、平安後期の歴史書『扶桑略記(ふそうりゃっき)』があります。
ここに、大津京遷都の翌年、夢のお告げで天智天皇が都から乾(いぬい)(北西)の方角に
崇福寺を建てたという記事があるからです。
そこは「佐々名実の長良山(ささなみのながらやま)」とあります。崇福寺が決まれば、
その南東に大津京が広がるというわけです。
| |
大津宮錦織遺跡 |
当時の大津とは、石山の粟津(あわづ)あたりを指したという説があります。
現在の浜大津辺は志賀津、古津と呼ばれていました。大津京は石山保良宮のことであり、
ここからは、まさしく乾の方角に長等山(ながらやま)があり、
山麓に三井寺が建ちます。崇福寺は三井寺だと。天智が粟津に都を置いたという伝承は、
『聖徳太子伝暦(でんりゃく)』が根拠です。
そして、それに呼応するように三井寺の『寺門伝記補録』にも、天智天皇が大友皇子に命じ、
長等山中にあった崇福寺を皇子の家地に移建させましたが、霊夢により元に戻し、
跡地に一寺を建立させたのが三井寺の縁起と伝えます。
皇子は壬申の乱で敗死しますので、遺命を与多王が果たします。
閼伽井屋を取り囲むように残る、日本最古の庭園といわれる蓬莱の石積みが、
大友皇子の邸跡だと伝えられています。崇福寺が鎌倉時代、
三井寺の管理下にあったことも、この話に信憑性を持たせます。
ところが、昭和三年、十三から十五年の発掘によって、崇福寺は志賀里西方の山中と確定されました。
伽藍の配置が文献に合致すること、また『日本後記』に記載された崇福寺の確かな所在地、
嵯峨天皇が平安京から山中越をして崇福寺に立ち寄り、
近くの梵釈寺(ぼんしゃくじ)(南滋賀廃寺か?)に寄って、湖上、唐崎あたりを遊覧していることなどから。
| |
京から大津京への山越えに坐す志賀の大仏。 鎌倉時代作 |
これで崇福寺=三井寺説は否定されましたが、大津京の時代に建てられ、
大津京と主軸を同一にする四つの大寺院、南から三井寺、南滋賀廃寺、崇福寺、
穴太(あのう)廃寺の一つとして、三井寺も崇福寺も、
大津京防備の役割を果たしていたことは間違いなさそうです。
ちなみに、崇福寺から発見された舎利容器(しゃりばこ)は金銅製の外函、銀製の中函、
金製の内函が入れ子になっていますが、その中の、水晶の舎利が三粒納められていた瑠璃(るり)壺は、
吉野ケ里遺跡(佐賀県)で管玉が出土するまで、日本にある最古のガラスとしてファンを魅了していました。
| |
崇福寺跡出土の瑠璃壷。近江神宮所蔵 |
・「浪漫紀行・三井寺」に戻る
・「連載」に戻る
|