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自給の生活
筆者の妻の玄祖父の兄というのに富小路寛巽という人がいて、
三井寺第一五四代・山科祐玉長吏(住持職)の長吏代理を務めていました。
京都・聖護院の住職などを兼務しながら、寺内勧持院に住まいしていました。
明治三十六、七年、いまから100年ほど前の話ですが、この寛巽が肉を食らい、妻をめとっていたとして、
それが発端となり、寛巽−祐玉の間に派閥争いが起こります。
争議はだんだん拡大して、滋賀県庁から、果ては時の内務大臣・板垣退助の通達を仰ぐまでになりました。
夏も涼風が吹く頃になると、茗荷が花盛りです。ミカン、キンカン、柚子、それに柿は、
どの塔頭にもおいしいものが植えられていて、もう古木になっています。
錦繍の秋、全山紅葉の山中を歩けば、至るところでキクラゲを見かけます。
ヒメキクラゲやアカキクラゲは、サッと湯通しして酢醤油で頂けば、酒肴の一品。
上光院の奥には巨大な椎(しい)の倒木があって、一面に天然のシイタケが傘を広げていました。
友人は、マイタケの大きいものを手に入れたといっていました。
寺内で採れた山菜や野菜は精進料理の材料となります。
精進料理については、長吏夫人・福家慶子様よりお手数(てかず)の料理をご教示いただき、
楽しみとさせていただいているとおりです。 ※こちら
余談ながら、富小路寛巽晩年の後妻は、寛巽の死後、雲井春海との間に男子を設けます。
彼は佐保山家の養子となって尭海と名乗りますが、春海、尭海ともに奈良・東大寺の管長を務め、
なかでも佐保山尭海は写真家としても知られた人でした。身内の者から聞いた話。
確かめたわけではありませんか。
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