第一番札所青岸渡寺
それは行尊大僧正から始まった
巡礼というからには、やはり一番から参るのが筋だろうと、第一番札所、和歌山県那智の青岸渡寺へと向かう。
西国観音巡礼の歴史は、平安時代、三井寺長吏の行尊大僧正(一〇五五〜一一三五年)の巡礼に遡る。行尊は、密教修法の大験者として鳥羽天皇の護持僧をつとめた。また修験道にも精通し、熊野三山検校職をつとめ、大峰奧駈修行のもとを築いた。ことに『寺門高僧記』に収められた行尊の「観音霊所三十三所巡礼記」は、西国巡礼の最古の史料として知られている。また、歌僧としても高名で、「もろともにあはれと思へ山桜花よりほかに知る人もなし」は小倉百人一首に収められている。
行尊は、現在の第八番札所、奈良の長谷寺を出発し、現在の第十番札所・三室戸寺まで。覚忠の場合は、現在と同じ第一番の那智から三室戸寺までと順番が現在と異なるとはいえ、ほぼ同じ霊場に参拝している。
これまで南紀・那智へのルートは大阪経由、阪和自動車道をひたすら南下するルートが一般的であったが、三重県尾鷲市まで自動車道が完成し、新名神、伊勢道、紀勢道を経由して熊野に至る東回りルートが可能になった。
快適なドライブを楽しみながら尾鷲南インターから国道四二号線に出ると、もうそこは太平洋の熊野灘、美しい七里御浜海岸である。海沿いの道を進むと太平洋を見下ろすように巨大な岩がそびえ立つ。御縄掛け神事で有名な世界遺産「花の窟(いわや)」である。
花の窟神社は、日本書紀にも記され、最古の神社ともいわれている。社殿はなく、高さ四十五メートルもの巨岩そのものがご神体で、天に向ってそそり立つ存在感は圧巻である。近くまで行くと、太古から日本人が信仰してきた神々の息吹が感じられ、自然に頭が下がるから不思議である。
熊野街道・国道四二号線から那智勝浦新宮道路の那智勝浦インターを経て、那智山道をゆっくり進む。当地の代名詞ともいえる那智大滝を拝した後、みやげ物店が並ぶ石段を登って西国第一番札所・青岸渡寺に到着した。
智証大師と那智大滝
那智山青岸渡寺は、和歌山県那智勝浦町にある天台宗の寺院で、本尊は如意輪観音菩薩。本堂での参拝をすまして、和歌山県の天然記念物に指定されたタブノキの大樹を眺めていると、副住職の高木亮英師が帰ってこられ、しばし、お茶をご馳走になりながらお話
をきくことができた。
補陀洛(ふだらく)や岸打つ波は三熊野の
那智のお山にひびく滝つ瀬
と御詠歌に詠まれたように境内からは那智の大滝を背景に三重塔が朱色の映え、絶好のフォトスポットとなっている。現在の本堂は、豊臣秀吉によって天正十八(一五九〇)年に建立されたもので、重要文化財に指定されている。
寺伝によると、仁徳天皇の時代にインドから裸形上人が熊野の浜に漂着。上人は熊野各地を巡り、那智の大滝で感得した如意輪観音像を祀った。その後、推古天皇の時代になって生仏上人が伽藍を建立し、椿の大木で如意輪観世音菩薩を彫り、その胎内に裸形上人の観音像を納めたと伝えている。
三井寺の開祖・智証大師は、比叡山での一紀十二年の籠山修行を終えた承和十二(八四五)年、三十二歳のときに修験道の開祖・役行者の足跡を慕い、大峰、熊野三山の深山に分け入り、那智の大滝で一千日の参籠修行を行なったという。この智証大師の事跡は、のちに「三井修験」、「本山派修験」と呼ばれる天台系修験道の起源として大いに賞揚され、天台教学の両翼である顕教、密教の二教に修験道を加えた三井寺独自の「三道融会」と称される教風を確立することになった。
熊野御幸と三井寺
熊野への信仰は、平安時代後期になると「蟻の熊野詣」といわれるほど盛況を呈し、多くの人々が蟻が行列をつくるように熊野古道を歩いて参詣した。
四(一〇九〇)年、智証大師の法脈を継ぐ三井寺の僧で聖護院門跡を創建した増誉(一〇三二〜一一一六年)が、白河法皇の熊野御幸の先達(案内役)をつとめ、熊野三山検校職(熊野三山の統括職)に補任される。その後も、西国巡礼の記録を残した行尊をはじめ三井寺の高僧たちが、次々と熊野御幸の先達をつとめ、やがて三井寺は全国の天台系の修験道を掌握し、役行者と智証大師を祖と仰ぐ「本山派」と呼ばれる一大教派の中心道場となっていく。
熊野古道と補陀洛山寺
那智山からの下山する途中、熊野古道の大門坂に立ち寄る。熊野古道は、二〇〇四年に「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産に登録され、大いに脚光を浴びるようになった。ことに那智山へと至る大門坂あたりの熊野古道は、杉木立のなかに美しい石畳の道が続き、熊野詣で栄えた往時の面影を偲ぶことができる。
次に訪ねたのが、那智駅に近い補陀洛山寺。ご本尊は秘仏の三貌十一面千手千眼観音立像。平安時代の古仏で重要文化財に指定されている。青岸渡寺の高木亮英副住職から連絡して頂いていたので、さっそく本堂でご住職にご挨拶すると、なんと秘仏の扉を開いていただき、有り難いことにご尊容を拝ましていただくことができた。
補陀洛とはサンスクリット語の「ポタラカ」の音写で、観音さまの浄土を意味する言葉である。経典によると補陀洛は、インドのはるか南方の海上にあるといわれ、観音信仰の流布とともに中国やチベットにも広がっていった。中国では舟山群島(浙江省)の普陀山が知られ、チベットのラサにあるポタラ宮の名も「ポタラカ」に由来する。
補陀洛山寺は、裸形上人が開いたと伝える天台宗の古刹で、平安時代から江戸時代にかけて、渡海上人と呼ばれる住職が南海の彼方にあるという観音浄土を目指して旅立った「補陀洛渡海」の出発地であった。わずかな食糧しか持たず小さな小舟で太平洋にこぎ出す、まさに捨身行そのものであった。
境内の一廓に、渡海船の模型が展示されている。船上には箱のような屋形が設けられ、その四方に死出の四門を表す鳥居が建てられている。実際に渡海上人が屋形に入ると、出られないように板で釘打されたという。
西国巡礼の旅のはじめに青岸渡寺や補陀洛山寺でお話を聞かせていだきながら、巨岩や大滝といった大自然の霊気にみちた熊野の地は、やはり古代から人々にとって特別な霊場でありつづけてきたことを実感することができた。
|