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第八番札所 長谷寺
四季を通じて愛される花の寺
べんべんと行く西国三十三所霊場めぐり 「花の御寺」として名高い真言宗豊山派の総本山、西国第八番札所・長谷寺へと向う。とはいえ、べんべんの日程上、ボタンやツツジが終わり、アジサイが咲きはじめた梅雨入り前の少し残念な時期となった。花一杯の撮影ロケにならなかった事を最初に報告して、べんべんの霊場めぐりを始める。


 本堂に向かう参道の両側には、長谷名物の草餅や、吉野葛などおみやげを商う店や旅館などが立ち並び、門前町の賑わいを呈している。この門前をゆっくり進めば、仁王門にたどりつく。仁王門は重要文化財に指定された入母屋造り本瓦葺の堂々とした楼門であるが、現在は工事中でその威容を見ることは出来ない。

人々に囲まれるべんべん 仁王門前の入山受付で早くもべんべんは多くの参詣客に取り囲まれる。記念写真に応じたり、自己紹介の名刺を手渡したり、十四番札所・三井寺のアピールをする。さすが花の寺と言われるだけあって、女性参詣客の比率は高く、集まりも早い。そこで、べんべん自慢のほら貝を披露することになる。

 長谷寺といえば、仁王門から延びる屋根つきの登廊(のぼりろう)が有名である。長く続く三三九段の登廊は二度折れ曲がって本堂へと続く。その登廊の両側を七百株のボタンが咲き乱れる様子は圧巻で、長谷寺といえば誰でも頭に浮かぶイメージであろう。ぜひボタンの季節、春にも来たいものである。




 その長くて美しい登廊を、ひときわ優美な雰囲気を演出しているのが、長谷型灯篭である。しかし二間おきに吊るされているその灯篭に、べんべんの大きな釣鐘が頭に当たるのである。身長二メートルを超えるべんべん、境内を案内してくださる長谷寺の僧侶の手助けを受けながら、苦手な階段登りにチャレンジする。


平安時代から女性に愛された寺

 長谷寺の創建は古く、寺に伝わる国宝・銅板法華説相図の銘文によれば、朱鳥元(六八六)年、飛鳥・河原寺の道明が天武天皇の病気回復を祈願して、初瀬山の西の丘(現在、本長谷寺と呼ばれている場所)に三重塔を建立。続いて聖武天皇の勅を受けた徳道上人が東の丘(現在の本堂の地)に本尊十一面観音像を祀って開山したのが始まりといわれている。

長い登廊と長谷型灯篭 平安時代には官寺に準ずる定額寺に列せられ、現世利益を祈願する観音信仰の高まりと共に、都の貴族の間に「初瀬詣で」が大いに流行する。特に女性の参詣が多く、紫式部や清少納言をはじめ『蜻蛉日記』の作者藤原道綱の母、『更級日記』の藤原考標女などが訪れている。特に紫式部の『源氏物語』二十二帖、「玉蔓(たまかずら)」は、ここ長谷寺が特別な舞台となっている。

 物語は、頭中将と亡き夕顔の忘れ形見玉蔓は、四歳の時に預けられた乳母とともに九州の筑紫に下っていた。大層美しくなった玉蔓は土地の豪族大夫監の熱心な求愛を受けるが、これを拒んで都へ上京。京で母夕顔を探す当てもなく、神仏に願掛けし、長谷寺のご利益を頼み参詣の旅に出る。途中三輪山の麓、椿市の宿で夕顔の侍女、右近に偶然再会することになる。上洛して身寄りのない玉蔓は、縁ある右近の働きによって光源氏に引き取られてゆく。

べんべん本堂前に到着 このように長谷寺が物語の重要な舞台となっていることは、当時の長谷寺観音に対する信仰の広がりを示すものであり、興味のある方はぜひ『源氏物語』をひもとかれては。


 さて、べんべんは二度折れ曲がった登廊を登りつめ、本堂前に到着。その間、お参りの人々に笑顔(本当は汗だくなのに)を振りまき、写真の決めポーズを付けて愛想をふりまく。本堂前の広場で一休みし、最初に納経所でご朱印をいただく。


新緑の長谷の地を望む 国宝の金堂は正堂と礼堂からなり、礼堂(外陣)は南側に大きく張出し舞台造りとなっている。その舞台からは山々に囲まれ『万葉集』に「隠口(こもりく)の泊瀬の山」と詠まれた初瀬の地が見渡せる。ご朱印を受けたべんべんは、本堂内に特別公開されている本尊十一面観音菩薩像にお参りし般若心経をとなえた。

 本尊十一面観音菩薩像は、重要文化財に指定された高さ十メートル余の金色の巨像である。木造仏としては、国内最大級の観音像で右手に錫杖と数珠、左手に水瓶を持ち、岩座に立つ珍しい姿は観音、地蔵両菩薩のご利益を兼ね備えるともいわれ、世に長谷型観音と呼ばれるありがたい仏像である。

 十一面観音は、ことに「水」と関係の深い仏様であるが、長谷寺の観音さまは、わが滋賀県と縁が深く、琵琶湖西岸の近江国高島郡(滋賀県高島市)から洪水で流れ出たクスノキの巨木で彫られたと『長谷寺縁起絵巻』は伝えている。このクスノキは良い香りと光を放つ霊木で、漂着した先々で人々に災いや害を及ぼした。そこで長谷寺を開かれた徳道上人は、夢のお告げに従い、この霊木から観音像を造らせたところ、地中から金剛宝石座が現われ、観音さまは無事に鎮座され、以後、人々を守護し、ご利益を授けたという。

 現在も四季折々の花々で参詣者を迎える長谷寺は、ことに古今集の歌人・紀貫之の百人一首に収められた和歌で知られている。



 人はいさ心も知らずふるさとは
 花ぞ昔の香ににほひける


 貫之が長谷寺に参るたびに宿にしていた家に久方ぶりに立ち寄ったときの歌で、昔と変わらず美しく咲く長谷の梅を詠んでいる。たしかに人の心は変わりやすいもの。べんべんも、熊本地震の復興を祈願する「復興の鐘」を撞いて長谷の地をあとにした。

西国三十三所霊場道中ルート図


一歩足を延ばして聖林寺へ

 聖林寺は、長谷寺から車で三十分ほど、桜井市街地の南、北方に奈良盆地を見下ろす小高い山裾にある。この寺の有名なご本尊・十一面観音(国宝)と、三井寺とは、明治になってご縁ができる。

 三井寺の北院法明院には、日本美術の恩人として知られるフェノロサが眠っている。そのフェノロサと活動を共にし、経済的な支援をしていたのがボストンの素封家で、日本美術の収集家ビゲローである。

 フェノロサは来日後すぐに、仏像や浮世絵など様々な日本美術の美しさに心を奪われた。フェノロサが来日した時、折しも日本では神仏分離・廃仏毀釈の嵐が吹き荒れていた。日本各地では多くの寺院の仏像などが次々と破壊され、その弾圧は八年間もつづく。全国に十万以上あった寺も半数が取り壊され、貴重な文化財が失われていった。

寄進された厨子 この聖林寺の十一面観音も、かつては三輪山・大御輪寺の本尊であったが、路傍に放棄され、埃まみれて雑草のなかに放置されていたのを聖林寺の住職が大八車に乗せ、運んだといわれている。

 フェノロサは、その観音像の美しさに感動し、門前から大和盆地を指して、「この界隈にどれ程の素封家がいるか知らないが、この仏さま一体に到底およぶものでない」と絶賛した。

 また、本堂内右側に残されている厨子を寄進したのも、フェノロサとビゲローである。その厨子の下にはレールが敷かれており、もしもの時は厨子ごとお堂の裏戸から外へ引き出される仕組みになっている。フェノロサの深い心遣いが感じられる。

三井寺法明院のフェノロサの墓 / 聖林寺本堂 

 日本文化・芸術の理解者フェノロサは、三井寺の僧桜井敬徳師と出会い受戒する。戒名を諦信とする。また帰国後ボストン美術館の理事に就任するビゲローも受戒。戒名を月心とし、今は琵琶湖を望む法明院の墓地に眠っている。




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