第九番札所 興福寺・南円堂
奈良公園の鹿は逃げた。
興福寺をはじめ東大寺、春日大社など古都奈良の文化財が集中する奈良公 園一帯は、平成十年、世界文化遺産に登録され、内外から多くの観光客が押し寄せている。
さて、べんべんどうなるやら、興福寺の駐車場から奈良公園に向かって歩いてみる。修学旅行生とアジアからの観光客がまず興味深く近寄り、スマホに自撮棒のセットで撮りだす。理解できない言語がとびかうなか、べんべんは万国共通語の愛嬌で、十四番札所三井寺の名刺を手渡すとすぐに黒山の人だかりができる。
しかし、残念なことに奈良公園の鹿はあまり近寄ってこず、べんべんを見て飛び跳ねて逃げだす鹿もおり、べんべんは鹿にも個性があるのだという事を知った次第。せんべい手渡しのナイスショットの絵は、なかなか難しい。第九番札所、興福寺南円堂は藤原氏の祖である中臣鎌足の妻、鏡女王が京都の山科に建立した山階寺に始まる。のちに飛鳥に移転し厩坂寺(うまやさかでら)と改め、さらに和銅三(七一〇)年、平城遷都に伴い現在地に移って興福寺となった。その後、平重衛による南都焼き討ちをはじめ、幾度も天災や兵火に遭いながら、その都度復興してきた。しかし、室町 時代末期になると藤原摂関家も衰退。享保二(一七一七)年の大火以降は復 興の余力もなく、中金堂など、主要な建物も復元されないままとなった。
しかし平成三年、建築・考古・歴史・風致・文化財といった各界の学識経験者による「興福寺境内整備委員会」が設立され、本堂である中金堂を初めとした堂塔の復興計画が進められる。そして多くの檀信徒の浄財により、平成三十年天平様式の美しい姿がよみがえる予定である。
朱に輝く優美な八角堂
広い境内をゆっくり進むべんべん。多くの参拝者がべんべんを取り囲み、やっとの思いで、平成八年春の大修理を終え、朱色に輝く札所南円堂にたどりつき御朱印をいただく。
南円堂は創建以来四度目の建物で、寛政元年(一七八九)年に再建された。日本最大級の八角堂で、西国霊場のなか唯一、不空羂索観音菩薩像(国宝)が本尊の西国第九番目の霊場である。年に一度十月十七日に開扉され、多くの参拝者でにぎわう。特に藤原家の家紋である藤の花が咲く春は、香煙が絶えない。その南円堂の本尊、不空羂索観音菩薩像は運慶の父、康慶とその一門によって造られたとされ、正しく心に願うことは、必ずかなえてくれるという観音さまである。信仰すれば現世のみならず臨終にも安心が得られるといわれている。
その南円堂と対をなす北円堂は、藤原不比等追善のため養老五(七二一)年に創建された。南円堂ができるまでは単に円堂と呼ばれていた。現在の堂は鎌倉時代の再建で、興福寺にある堂塔のなかで一番古い建築物である。屋根の勾配が南円堂よりも穏やかで、より優美な印象を受ける。
べんべんは広い興福寺境内を、愛想を振りまきながら歩く。五重塔(国宝)をはじめ、東金堂(国宝)など貴重な文化財がいたるところにあり、中でも多くの参詣客で賑わう国宝館は秀逸である。べんべん一行は特別な許可をいただき、入館させていただく。
館内には天平彫刻の傑作として知られる阿修羅像をはじめ、興福寺の歴史を伝える仏像、絵画、資料などが展示されている。乾漆八部衆像や乾漆十大弟子像、木造金剛力士像、飛鳥の山田寺から運ばれた七世紀の銅造仏頭(いずれも国宝)などで、なかでもひときわ人気を集めているのが、かの有名な阿修羅像であろう。穏やかな表情のなか、離れて見るほどに眉間がくっきりと浮かび上がり、嘆き悲しむ表情が手に取るように見て取れる。拝観者からは、ため息と熱い視線が注がれていた。
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