第十一番札所 醍醐寺
理源大師聖宝が開いた上醍醐
醍醐寺は、京都市伏見区にある真言宗醍醐派の総本山である。醍醐寺といえば、豊臣秀吉による有名な「醍醐の花見」で知られている。いまも桜の名所というイメージが強く、三宝院門跡をはじめ国宝の金堂や五重塔が醍醐山麓の広大な境内に建ち並ぶ「下醍醐」が注目されがちである。ところが、醍醐寺の起源は、醍醐山(笠取山)の山頂にある「上醍醐」にある。
貞観十六年(八七四)、理源大師聖宝(八三二〜九〇九年)が、醍醐山上に准胝・如意輪の両観音像を造立し、堂宇を建立したのがはじまりと伝えられている。
聖宝は、弘法大師空海の高弟・真雅の弟子で、若くして東大寺で修行中のこと僧坊に棲みついた鬼神を退散させたという逸話が伝わる剛胆な人物で、真言密教の大家であるとともに山林修行を実践していたといわれ、真言宗における修験道、当山派の祖として仰がれている。後世、醍醐寺の当山派修験は、三井寺を根本道場とする本山派修験と二大勢力を形成することになる。
その後、上醍醐は、醍醐天皇の発願により延喜七年(九〇七)に国宝の薬師堂や五大堂(昭和十五年の再建)が建立され発展の基礎が築かれる。ことに醍醐天皇の醍醐寺への帰依は深く、天皇の諡号は寺の名をとって醍醐天皇とされたのである。
さて、西国霊場の第十一番札所は、もちろん上醍醐の准胝観音をまつる准胝堂である。ここは三十三所の霊場のなかでも屈指の険しい札所の一つである。ところが、平成二十(二〇〇八)年八月二十四日の落雷によって焼失。納経や朱印は現在、下醍醐の観音堂に移されている。したがって、今回は、上醍醐ではなく下醍醐での参拝となった。これを知ったべんべん、大いに安堵し、余裕をもって山門をくぐることに相成った。
三宝院門跡と下醍醐の壮大な伽藍
醍醐天皇の帰依は、皇子の朱雀・村上両天皇へと受け継がれ、醍醐天皇の冥福を祈念して天暦五年(九五一)に五重塔(国宝)が建立されるといっそうの飛躍発展をみせることになる。
室町時代には足利尊氏、義満の庇護により三宝院門跡を中心に醍醐寺は隆盛を迎える。応仁の乱など戦乱で三宝院が焼失するなど一時衰退するが、安土桃山時代には豊臣秀吉の信頼の厚かった醍醐寺金剛輪院の院主・義演准后のもとで三宝院門跡や下醍醐の伽藍は再興を果たし、慶長三年(一五九八)三月の「醍醐の花見」が実現したことは前述のとおりである。
さて、べんべんは三宝院門跡の前に延びる広い参道を進む。黒地に金箔の桐紋と豪華な菊紋を張り付けた壮麗な唐門(国宝)を左手に眺め、堂々とそびえる五重塔を仰ぎ見る。修学旅行生が目ざとくべんべんを見つけ、スマホやデジカメを向ける。いっしょにポーズを決めるべんべんの出現に生徒たちの素朴な方言が行き交い、なごやかな交流の時間が過ぎる。
それにしても若い女性の姿が目立つ。近年の朱印ブームのせいもあろうが、アンニュイな雰囲気をかもしだす人や、女性の二人旅など、これも新しい観音巡礼の姿の一つかもと感じ入るべんべんであった。
まずは金堂(国宝)を参拝。豊臣秀吉によって紀州湯浅(和歌山県湯浅町)の満願寺から移築された平安時代後期のお堂で、ご本尊に重要文化財の薬師三尊像をまつっている。
参道に沿って五重塔を拝しながら札所の観音堂へ向っていると如法衣姿のお坊さんに遭遇。 いっしょにお参りされてはと声をかけていただく。堂内に招き入れられ、観音経などの法楽に随喜させていただくことができた。
その後、ご朱印をいただき無事参拝をすますことができた。折から参詣の人たちも集まり、いっしょに記念写真におさまるべんべんであった。
さすが文化財の宝庫
醍醐寺の美しさは、春の桜はもとより錦秋の風情もひとしおである。
また、毎年二月に行われる「五大尊仁王会」の力自慢の男女が巨大な鏡餅を持ち上げる様子は季節の定番ニュースとして多くの人の知るところである。年中を通して多くの参詣者を迎える大寺の風格を感じさせる。
とはいえ醍醐寺の本当にすごいところは、なんといっても膨大な文化財を伝承していることである。
建造物は国宝六棟、重要文化財十棟。これに絵画、彫刻、工芸、文書聖教類を加えると国指定文化財だけでも七万六千点に及ぶ。
まさに古都京都の世界文化遺産のなかでも屈指の寺院である。
こうした文化財のなかに室町時代初期の醍醐寺報恩院門主・隆源の自筆原本『醍醐枝葉抄』十冊が伝わっている。
これは当山の福家俊彦執事長のご教示によるのだが、このなかに「観音三十三所巡礼次第」の記述があり、長谷僧正覚忠が頓滅して魔王宮に行き、炎王から「生身観音霊場三十三所」のことを詳しく教えられ、蘇生した後に参詣したことで天下に知れわたったという西国巡礼の起源説が紹介されている。
この長谷僧正覚忠とは、三井寺の長吏となった高僧で、やはり西国巡礼の最古の記録である三井寺の行尊に次いで古い応保元年(一一六一年)の巡礼記を残した人物である。
まさにこの伝承は、西国三十三所巡礼の縁起譚として流布している長谷寺の徳道上人の冥途蘇生譚のもとになった古い伝承と考えられ、ここにも西国三十三所巡礼が三井寺派の僧たちによってはじめられたものであることを示しているとのことである。
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