第十五番札所 今熊野観音寺
弘法大師が開基
今熊野観音寺は、京都市東山区にある真言宗泉涌寺派の寺院。 総本山泉涌寺の山内にある塔頭で、東山三十六峰のひとつ今熊野山のふもとに広がる幽寂の地にある。
大同二年(八〇七)、弘法大師空海が、この地を尋ね、熊野権現から「観世音をまつり末世の衆生を救済せよ」との霊験を得て建立したという。 秘仏のご本尊は、弘法大師が自刻した十一面観音さまで、熊野権現から授かった一寸八分の十一面観音像が胎内に納められていると伝える。
後白河法皇の頭痛を封じる
その後、熊野三山を深く信仰していた後白河法皇(一一二七〜一一九二年)が、永暦元年(一一六〇)に熊野権現を勧請し「新那智山」の山号を授け、「今熊野」と名づけた。
中世には熊野信仰を介して三井寺派の修験道(本山派修験)と関係が深く、聖護院門跡とともに京都における本山派修験の拠点ともなった。その証拠に脇仏としてまつられる不動明王は、三井寺の智証大師作と伝えられている。
ところで、後白河法皇は、日頃から頭痛に悩んでいたようで今熊野の観音さまに祈願したところ、ある夜、枕元に観音さまが現れて光を放った夢をみて頭痛が治った。この「後白河法皇頭痛封じ霊験記」は知られるところとなり、今熊野は「頭の観音さん」として広く信仰を集め、頭痛封じをはじめ学業成就、ぼけ封じなどのご利益をもとめて参詣する方も多いという。
べんべんが行く
中世に隆盛を誇った今熊野であるが、南北朝の動乱や応仁・文明の大乱の兵火にかかり、現在の本堂は、正徳二年(一七一二)に再建されたものである。
べんべんが今熊野へ向ったのは、鉛色の梅雨空が広がる七月上旬のこと。新緑も鮮やかな夏木立に囲まれた森厳な境内へと進む。先ずは本堂に参拝、ご朱印をいただく。折しも居あわせた参詣の人たちに自慢の法螺貝を披露、喝采をあびる。
境内を巡拝すると鎮守社として熊野権現社と稲荷社がある。熊野権現社は後白河法皇の由緒を伝え、稲荷社は弘法大師が東寺の鎮守として稲荷神をまつったことに由来するもので、真言宗とは縁の深い神さまである。
さらに奥に進むと、弘法大師が錫杖を振るうと湧き出たと伝える「五智水」がある。 ここからは坂道が続き、見上げると丹色も鮮やかな多宝塔(医聖堂)を仰ぎ見ることができる。 道中には西国霊場の本尊を石仏として奉安した小祠が連なっている。
熊野信仰と熊野三山
後白河法皇が今熊野に勧請した熊野権現への信仰は、中世には「蟻の熊野詣」といわれるほど盛況を呈し、人々はこぞって熊野古道を辿り参詣した。
熊野の地は、古代には「隠国(こもりく)」「常世国」とも呼ばれ、死者の霊魂がおもむく他界と考えられていた。奈良時代以降は仏教の影響のもと神仏習合の思潮が定着し、本来は別々の起源をもつ本宮・新宮・那智の三山は山岳宗教のなかに組み込まれ、修験道の聖地となり、やがて熊野三山制度が成立することになる。その背景となったのは、全国を行脚して熊野の霊験と説いてまわる山伏や聖たちの存在であり、その多くは三井寺の支配下にあった。
熊野三山隆盛の契機となったのが、寛治四年(一〇九〇)の白河法皇の熊野御幸である。このとき智証大師の法脈を継ぐ三井寺僧で聖護院門跡を創建した増誉(一〇三二〜一一一六年)が先達をつとめ、熊野三山を統括する検校職に補任された。その後も、百人一首の歌人で、西国巡礼の記録を残した行尊(一〇五五〜一一三五年)をはじめ三井寺の高僧たちが、次々と熊野御幸の先達をつとめ、熊野三山検校職を継承し、三井寺は修験道(本山派)の中心道場となっていく。
熊野三山が、「日本第一大霊験所」として繁栄の頂点に達したのは、まさに後白河法皇のときで、実に三十四度も熊野御幸を行なっている。
法皇は京都にも熊野権現を勧請している。そのひとつが今熊野観音寺に近い東山の新熊野神社である。この神社は平治の乱で御所の三條殿を焼かれた法皇が、永暦元年(一一六〇)に東山に営んだ御所の法住寺殿の鎮守として熊野那智のご神体を勧請したものである。やはり戦乱で廃絶の危機に瀕していたが、江戸時代はじめに後水尾天皇(一五九六〜一六八〇年)の中宮・東福門院(徳川家光の妹)により復興の途につき、現在の本殿は後水尾天皇の皇子の三井寺長吏、聖護院宮道寛親王によって寛文十三年(一六六三)に修復されたものである。
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