第十八番札所 六角堂頂法寺
泣くよ坊さん、平安京
平安京といえば「鳴くよウグイス、平安京」。西暦七九四年、桓武天皇によって都が奈良の平城京から京都に移された。新しい都では、奈良にあった大寺の移転が禁じられ、東寺と西寺の官寺を除いて寺院が置かれなかった。これは道鏡に代表される仏教勢力を警戒しての処置だったようで、年代暗記のゴロ合わせには「泣くよ坊さん、平安京」というのもある。こちらの方が時代背景を踏まえているといえそうである。
とはいえ平安京にまったく寺院がなかったかというと必ずしもそうでもない。貴族の持仏堂や民衆の信仰をあつめた霊験ある小堂などが存在した。こうした「堂」の代表格が下京の六角堂(頂法寺)、上京の革堂(行願寺)や因幡堂(平等寺)で、室町時代には「町堂」と呼ばれ、経済力を蓄えた自治的な組織「町衆」によって支えられていた民衆の寺であった。ときに土一揆や比叡山の僧兵による争乱の知らせが入るや町衆たちは町堂に集まり、寺の鐘を打ち鳴らして自分たちの町を守ったのである。
聖徳太子の開基
町堂のなかで最も古い歴史をもつのが、中京区堂之前町にある六角堂である。正式名を紫雲山頂法寺と称し、聖徳太子の開基と伝えられている。伝承では聖徳太子が四天王寺を建立するための用材を求めて、この地を訪れ、池で身を清めるために念持仏の如意輪観音像を多良の木に掛けたところ動かなくなり、この地の留まって衆生を救いたいとのお告げがあったことから六角のお堂を建立したという。史料では十一世紀の初めまでしか遡れないが、伝承では平安遷都以前からあったことになる。
ご本尊は秘仏で、三井寺の行尊による巡礼記(一〇五五〜一一三五年)には「金銅三寸如意輪」と記されている。現在は第十八番の札所であるが、行尊の巡礼記では第二十八番、同じ三井寺の覚忠の場合は二十九番の札所となっている。
平安京と「へそ石」
現在も六角堂は「京の通り名の唄」に「丸竹夷二押御池、姉三六角蛸錦…」と歌われる通り、烏丸御池を三本南に下がった六角通を東に入ってすぐ、周囲を現代的なビル群に囲まれた都会の真ん中にある。
べんべんは賑やかな通りを多くの人々の注目を集めながら山門をくぐる。先ずは六角堂の呼び名の通り六角形の本堂に向う。本堂は明治十年(一八七七)の再建で、入母屋造の礼堂が隣接している。べんべんは参拝後、折から訪れていた京都らしい着物姿の参詣者と記念撮影にいそしんだ後、聖徳太子をまつる太子堂、親鸞聖人が参籠し夢告を授かった聖跡を物語る親鸞堂を巡拝し、納経所でご朱印をいただく。
境内には「へそ石」と呼ばれる六角形の礎石がある。伝承では平安京造営のときに六角堂が新道の六角小路の中央に当たったため桓武天皇が遷座を祈願されたところ御堂が五丈(約十五メートル)ほど北に移ったという。「へそ石」はその名残で、安永九年(一七八〇)刊行の『都名所図会』には、確かに六角通の山門前に描かれており、明治十年(一八七七)に境内に移された。
いけばな発祥の地
六角堂といえば、誰もが知る「いけ花」発祥の地でもある。会員数最大を誇る華道家元「池坊」は、いまも住職が家元を継承しており、境内北側にはティーラウンジや資料館などが入った現代的な池坊会館がある。会館前には「池坊」の名の由来となった聖徳太子沐浴の池やいけ花発祥の地を示す初代専好の立花のモニュメントなどがある。
さすがに六角堂は京都の千二百年の歴史とともに歩んできた文化と信仰の聖地であると、べんべんも再認識したところで、次の第十九番札所・革堂へと向った。
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