第二十一番札所 穴太寺
老ノ坂峠の道
次に向ったのは穴太寺。国道九号線に合流して亀岡を目指す。九号線は古代以来の山陰道に当たり、かつては老ノ坂峠を経由して京都と亀岡を結んでいた。明治十六年(一八八三)に「松風洞」という隧道が掘られ、昭和八年(一九三三)には北側に「和風洞」というトンネルが完成した。昭和三十九年(一九六四)に開通した現在の国道九号線の老ノ坂トンネルは明治の「松風洞」の位置に当たっている。
身代わり観音
約三十分ほどで穴太寺に到着。さっそく本堂に参拝してご朱印をいただく。
平安時代に三井寺の行尊(一〇五五〜一一三五年)が巡礼したときの「観音霊所三十三所巡礼記」によると、穴太寺は第三十一番「菩提寺、等身薬師、聖観音三尺金色、丹波桑田郡、穴宇寺」と記され、覚忠の巡礼記では第三十二番「丹波桑田郡、菩提寺、字穴憂寺、三尺金色聖観音、願主聖徳太子御建立」とされている。平安時代には菩提寺とも称していたことが分かる。また「あのお」の漢字表記も様々で、「穴穂寺」とも記されることもあるが、いまでは菩提山穴太寺が正式な名称である。
草創は慶雲二年(七〇五)、大伴古麻呂が文武天皇の勅願により薬師如来をまつったのがはじまりである。
札所のご本尊となる聖観音像は、今昔物語に「丹波国の郡司、観音像を造るの語」で語られる「身代わり観音」の説話で知られている。
今は昔、丹波国桑田郡の郡司は、都の仏師に依頼して聖観音像を造った。出来映えに喜んだ郡司は、仏師に謝礼として大切にしていた馬を与える。ところが、与えた馬が惜しくなり、家来に命じて仏師を弓矢で射殺し、馬を取り返してしまう。その後、家来に京の仏師の家を訪ねさせたところ、殺したはずの仏師も馬も健在で、驚いた家来が急いで帰ってみると馬屋にいたはずの馬もおらず、くだんの観音像の胸には矢が刺さって血が流れていたという。宝徳二年(一四五〇)成立の『穴太寺観音縁起』では、この観音像は寛弘七年(一〇一〇)に造立されたと伝え、郡司を宇治宮成、仏師の名を「感世」としている。現に境内には穴太寺創建宇治宮成の墓が残されている。
穴太寺と菩提寺、寺名の謎
観音霊場として知られる穴太寺であるが、本堂の中央にはご本尊として薬師如来がまつられ、札所の聖観音さまは、その左右に安置されていた。
また、創建者として大伴古麻呂と宇治宮成という二人の人物が登場することや古い巡礼記に菩提寺という異名が記されている。どうも穴太寺には『穴太寺観音縁起』には語られていない歴史の謎があるのかも知れない。
まずは、この地の古代豪族であった大伴氏によって薬師如来を本尊とする穴太寺が建立されたが、平安時代になると札所の観音さまの方が信仰を集めるようになった。その歴史のなかで、現在の穴太寺は、もとは観音像をまつる菩提寺という別の寺と合併してひとつになった可能性もあながち否定できないように思われる。
また、穴太という珍しい名前であるが、比叡山延暦寺の門前町・坂本にも穴太という地名がある。ここは石工集団「穴太衆」でも知られている。また記紀が伝える景行天皇の高たか穴あな穂ほ宮跡の伝承をもつ高穴穂神社もあり、この地域は、天智天皇の時代には中国や朝鮮半島から渡来した高度な技術を有する人々が集住していたという。おそらく穴太寺近辺も同じような歴史を秘めた土地であったのかも知れない。
源三位頼政の塚
穴太寺からの帰途、国道九号線を京都方面へ走っていると「頼政塚」という交差点がある。頼政とえば源三位頼政を指すと思われ、そうとすれば三井寺と大いに関係があると寄り道することにした。はたして西つつじヶ丘の小高い丘にそれはあった。案内板には、平家との戦いで戦死した頼政の亡骸を猪早太という郎党が、頼政の領地であった丹波国矢田荘に持ち帰り葬った塚であるとの説明がある。
治承四年(一一八〇)後白河法皇の皇子・以仁王と頼政が平清盛に反旗を翻したとき、これを支援した三井寺では僧兵を援軍につけ一行は奈良へ向う。その途中、平家軍に追いつかれ宇治橋を挟んで合戦となる。平家物語には、筒井浄妙坊や一来法師といった三井寺の僧兵たち奮戦ぶりを伝えている。
これまで亀岡に頼政の塚があるとは知らなかったので驚いたが、それだけでなく宇治橋の合戦では、亀岡市ひえ田野町にある朝日山神蔵寺の僧徒も三井寺に呼応して兵を挙げたという。神蔵寺の背後には湯の花温泉の源泉のある朝日山があり、やはり古来から修験道の道場であったという。当時、三井寺とどのような関係にあったのかは分からないが、不思議な法縁を感じ、これも西国巡礼のご利益かと感じ入った次第である。
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