第二十番札所 善峯寺
西山・大原野の地
初雪が降りそうな冬空の下、べんべんの乗った車は、西山善峯寺を目指す。
京都の西には南北に山並みが連なり、この連峰を「西山」と称している。その山麓は古くから「大原」、「大原野」と呼ばれ、かつては西山竹林と呼ばれる竹藪が広がっていた。車はむかしの面影が残る田園を通り抜け、やがて山路を登ると善峯寺に到着する。
善峯寺開山・源算聖人
べんべんは立派な楼門をくぐり、札所の観音堂(本堂)へと向う。
ご本尊は秘仏の千手観音立像で、長久三年(一〇四二)に安居院仁弘法師作と伝える洛東鷲尾寺の像を移したという。ご本尊の脇にもう一くの千手観音像がまつられている。この尊像は善峯寺の開山である源算上人(九八三〜一〇九九年)の作と伝える古像で、現在は洛西観音霊場第一番札所の本尊となっている。
比叡山の恵心僧都源信の弟子となった源算上人は、長元二年(一〇二九)四十七歳のときに霊地を求めて西山を訪れ、この地を鎮守する阿智坂明神の化身である老翁と出会い、十一面千手観音像をまつる一宇を建立したのが始まりという。『西山善峯寺縁起』によると、源算上人のもとに夢告があり、野猪の大群が現れて一夜にして牙で大岩を砕き、険しい山を開いてお堂を建てることができたという。その後、長元七年(一〇三四)になって後一条天皇から「善峯寺」の寺号を賜ったという。
さっそく、べんべんは法螺貝を吹いて観音さまにお参りし、ご朱印をいただいていると先達さんに案内されたグループに遭遇する。すぐに「三井寺のべんべんや」と話しかけられる。なかに第三十二番札所・観音正寺の輪袈裟をかけた方がおられ、滋賀県からの一団と分かり、奇遇をよろこびあった。
その後、お寺の方のご案内で諸堂を巡ることに。約三万坪に及ぶ境内には端整な堂塔が建ち並んでいる。先ずは鐘楼で鐘つきにチャレンジする。この梵鐘は、徳川第五代将軍綱吉の厄年に寄進された「厄除けの鐘」で、鐘楼も綱吉の生母・桂昌院(一六二七〜一七〇五年)によって貞享三年(一六八六)に建立されている。
次に元和七年(一六二一)に建立された重要文化財の多宝塔のある高台へ。ここには善峯寺といえば「遊竜松」といわれる有名な五葉松が大枝を広げている。樹齢六百年といわれ天然記念物に指定されている。まさに地を這う竜のように枝を延ばす姿は圧巻である。
さらに石段を登って釈迦堂に参拝。ここからの眺めは絶景。京都市街を眼下におさめ、はるかに比叡山から東山の山並みを一望することができる。
善峯寺に帰依した人々
善峯寺が今日のように諸堂が建ち並ぶようになったのは後三条天皇の時代、天喜元年(一〇五三)のころである。この年、源算上人が天皇の中宮藤原茂子の安産を祈願し、無事にのちの白河天皇が誕生したからである。
鎌倉時代になると源頼朝が、源算上人を継いだ観性法橋に帰依し、山門の仁王像を運慶に彫像させている。
また、関白九条兼実の弟で天台座主となり、歌人で知られる慈円(一一五五〜一二二五年)が法灯をついだことから、その後も道覚法親王はじめ青蓮院門跡より多くの親王が入山している。
当時の事情を物語るのが、三井寺の覚忠(一一一八〜一一七七年)が残した応保元年(一一六一)の巡礼記である。覚忠は慈円の兄に当たり、その記録によると善峯寺は第三十一番「御堂五間東向、八尺千手、大原野南、願主源算聖人」と記されている。
最盛期には五十二の僧坊が建ち並んでいたというが、応仁の乱で兵火にかかり衰微してしまう。こうした寺勢を復興したのが、桂昌院その人であった。善峯寺に深く帰依した桂昌院は、元禄五年(一六九二)には観音堂や護摩堂宝永二年(一七〇五)には経堂のほかに七十九歳で亡くなった桂昌院の遺髪を納める廟所も建立されている。またゆかりの貴重な仏具や工芸品も多く伝えられている。
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