第二十三番札所 勝尾寺
西国街道から勝尾寺へ
西国街道(山陽道)は、京都と神戸をつなぐ現在の国道一七一号線とほぼ平行して走っている。ことに山崎街道とも呼ばれる京都山崎から高槻の間は府道六七号に相当し、茨木からは勝尾寺川に沿って郡山宿本陣、大阪モノレール豊川駅を経て吹田市に入る。そのまま進むと勝尾寺大鳥居の前に出る。ここから北に向うと箕面市になり、山道を辿って勝尾寺に到着する。
絢爛豪華、圧巻の境内
箕面市にある勝尾寺は、高野山真言宗の霊場。山号は応頂山で、本尊は十一面千手観世音菩薩である。
先ず入口に隣接するお休み処「花の茶屋」や宿坊の応頂閣の現代的な建築に驚かされ、さらに山門をくぐると大きな弁天池に掛けられたお浄め橋の下から霧に湧き上がってくる。人工的に霧が発生するようになっているようで、参拝者は雲海の上を渡って浄刹に入る演出が凝らされている。
べんべんも橋の上で参詣者に挨拶しながら、しばし幻想的な光景に浸ることになった。石灯篭が並ぶ参道に沿って趣向を凝らした木々や花々が植えられ、読経の声がスピーカーを通して流れてくる。境内一円は、霧の橋といい、まさに観音浄土さながらをかもしだしている。
勝尾寺の前身は、弥勒寺
創建は奈良時代の神亀四年(七二七)、善仲と善算の双子の兄弟が勝尾山に入り草庵を構えたことに始まるという。
天平神護元年(七六五)には光仁天皇の皇子・開成に戒を授けている。兄弟の跡を継いだ開成皇子が、勝尾寺の前身となる弥勒寺を建立したことから開山堂には、善仲、善算の兄弟とともに開成皇子の木像がまつられている。
開成皇子は天応元年(七八一)に没し、勝尾寺裏の最勝ヶ峰山頂に葬られ、その墓は宮内庁管理となっている。
札所の本尊となる十一面千手観世音は、開成皇子在世中の宝亀十一年(七八〇)のこと、妙観という仏師が来山して白檀香木をもって身丈八尺の観音像を刻んで忽然と姿を消したという。開成皇子は妙観こそ観音菩薩の化身だったと思い本尊にまつったという。
勝運を呼ぶ勝ちダルマの寺
勝尾寺に寺号が変わったのは平安時代になって六代目・行巡上人のときである。清和天皇の病気平癒を祈願し、「王に勝った寺」の意で「勝王寺」の寺号を賜ったが、王の字をはばかって尾を用いて勝尾寺にしたという。だから正式な呼称は「かつおうじ」である。
以後、勝運の寺として信仰され、清和源氏の流れを汲む鎌倉幕府や室町幕府の将軍が帰依し、広大な領地を有した。ことに元暦元年(一一八四)に源平の合戦で焼失した際には源頼朝の命により熊谷直実や梶原景時によって文治四年(一一八八)に再建されている。
それにしても境内のあちらこちら、いたるところに勝ちダルマが鎮座している。さすが勝運をいただける寺と感心するべんべんは、本堂に参拝してご朱印をいただき、多宝塔の建つ高台から伽藍を一望し、弁天堂まで下りてくると、和服姿のかわいらしいお嬢さんに遭遇。成人を迎えられたばかりの様子で、お母様が写真を撮っておられた。べんべんもすかさずツーショット写真をお願いして写真におさまることができた。これも観音巡礼のご利益かと気分上々で勝尾寺を後にした。
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