三井寺 三井寺について
ホーム サイトマップ

べんべんと行く西国三十三所霊場めぐり
三井寺について
境内案内
歴史年表
伝説
歴史散歩
べんべんと行く西国三十三所霊場めぐり


ピックアップ

名宝の紹介

教義の紹介

花ごよみ

連載

法要行事

拝観案内

販売

お知らせ

お問い合せ

第三十二番札所 観音正寺
聖徳太子と人魚伝説
べんべんと行く西国三十三所霊場めぐり 西国第三十二番札所・観音正寺は、近江八幡市と東近江市にまたがる標高四三三メートルの繖山(きぬがさやま)の山頂近くに位置する。現在の所在地は近江八幡市安土町。かつては長命寺と同様に旧蒲生郡で、開基も聖徳太子である。

 琵琶湖の湖畔で人魚に出会った聖徳太子が、人魚から「前世は漁師で殺生を業としていたため、このような姿になりました。どうかお寺を建立して成仏させてください」との願いをかなえるため自ら千手観音像を刻み、観音正寺を建立したと伝えている。

 この寺に参詣するには、千二百段はあるという石段を登らねばならない。西国霊場でも上醍醐や槙尾山と並ぶ代表的な難所だった。いまでは林道が通り、べんべんも車に乗って門前に到着。さっそく岡村遍導ご住職の出迎えを受ける。

 この日は折しも七月二十三日。「ふみの日」ということで、お寺では「ふみくよう」の行事が行われていた。地元の郵便局長さんたちがお世話されていて、いっしょに参加していた日本郵便のオリジナルキャラクター「ぽすくま」の仲間「ぽすみるく」と記念撮影とあいなった。  






繖山と観音寺城

繖山から望む蒲生野  観音正寺のある繖山には、かつて近江守護の佐々木六角氏が居城とした観音寺城があった。現在は観音寺城跡として国の史跡になっている。周辺には伝本丸跡など多くの廓があり、大石を用いた石塁で囲まれた大規模な山城であったことが分かっている。築城年代は南北朝時代、長命寺でも名前の出た六角氏頼のころには築かれていたという。室町時代になり六角高頼(不詳〜一五二〇年)が居城として以来、おおいに隆盛をみた。

 ところが、永禄十一年(一五六八)九月、織田信長の軍勢に攻められ、六角承禎(一五二一〜一五九八年)と義治父子は敗走。寺もその混乱に巻き込まれ焼失したという。江戸時代初めには伽藍が山上に再興され、観音霊場として多くの参詣を集めてきたが、平成五年(一九九三)の失火により本堂は重要文化財の本尊千手観音像とともに焼失してしまう。現在の本堂は、平成十六年(二〇〇四)に再建されたもので、本尊には特別にインドから輸入した白檀で彫られた千手観音像がまつられている。


蒲生野と安土城

 本堂から眼下に目を向けると蒲生野が広がっている。鏡山、雪野山や太郎坊山、遠くに三上山も望むことができる。観音正寺の繖山周辺にも石馬寺や桑実寺といった古刹があり、この地が古くから霊山を仰ぐ山岳信仰、修験道の聖地であったことを物語っている。

 六七〇年、天智天皇は再び蒲生野に赴き、都を造る宮地の視察を行っている。大津宮からの遷都を考えていたという。この計画は壬申の乱で潰えてしまうが、そのおよそ九百年後、織田信長が繖山に近接する安土山に絢爛たる城を築く。信長もまた、奈良や京都ではなく近江に新しい日本の中心を築こうとしたのである。ほと実現しかけていた信長の野望も本能寺で無に帰してしまう。この湖東の地は、古代以来の霊地であるとともに英雄たちの夢と野望の跡、その可能性が可能性のまま葬り去られた運命の地だったのかも知れない。




「べんべんと行く西国三十三所霊場めぐり」に戻る
「三井寺について」に戻る

 
Copyright (C) 2002 Miidera (Onjoji). All Rights Reserved.