|
|||
|
藤尾奥町、藤尾神社から如意寺跡を求めて。 天慶元年(九三八)、藤尾に住む尼さんが、岩清水八幡大菩薩像を造って多くの人々の信仰を集めていたという。『本朝世紀』には、本宮である岩清水八幡宮(八幡市)の放生会に僧侶や楽人の数が足らなくなるほどの様子だったと伝えている。庶民信仰のたかまりと、藤尾の繁栄ぶりが偲ばれる。
藤尾神社のわき、北西に伸びる細い山道を登る。如意ヶ岳へ続く道である。標高五〇〇メートにもみたない小さな山の南側の谷である。鬱そうと繁った木立の間に、あきらかに階段状に切り開かれた平地が残り、土塁や朽ちた井戸の跡などが残っている。 三井寺の別院、如意寺跡の一部である。重要文化財に指定された「園城寺境内古図」は、如意寺の多くの堂塔伽藍、僧坊を誇ったといわれる壮観を描き出している。 かつて、京都から三井寺へは、北白川の鹿ヶ谷から大文字の送り火で知られる如意ヶ嶽を越えるのが近道であった。如意寺は、この山道の途中にあった寺である。また、山科、藤尾方面からも如意寺への道が通じており、絵図にもその入口を示す「藤尾門」が描かれている。 藤尾奥町には、かつて如意寺の一坊であったといわれる寂光寺がある。もとは山田堂とも藤尾観音堂とも呼ばれ、ここには刻銘から延応二年(一二四〇)の造立とされる磨崖仏がある。 堂内に入るや高さ三メートル、横幅六メートルに及ぶ大きな花崗岩が眼前に現れる。中央には、ひときわ大きな阿弥陀さま、流れるような衣紋の表現といい、おだやかな優しさに溢れた表情は、見る人の心を静めずにはおられない。 左右にも地蔵さまや観音さまなどの菩薩像、その上下にも小さな尊像が彫り出され、実に圧巻である。 寺伝によると、この磨崖仏は智証大師の作と伝え、これを完成させた夜、夢の中に藤の花を捧げた聖徳太子が現れたといい、藤王または不死王と呼ばれるようになり、地名の藤尾に転じたという。 横木町、旧街道に沿って、閑栖寺に智証大師像を訪ねて。 次に、横木町の閑栖寺に向かう。京阪追分駅から国道一号線を越えた所、旧東海道と伏見街道の分岐する場所にある。山門は長屋門の上に太鼓楼を重ねた珍しい門で、その鼓楼内の太鼓で、東海道を旅する人に、時刻を知らせたという。
境内には、「従是西寺門領」(是より西、寺門・三井寺領)という石碑が建つ。ここまで三井寺領であったという歴史を物語っている。 ご住職の佐藤さんにお話しを伺う。「横木村は、もともと三井寺領だったようです。当寺は天文二十三年(一五五四)に建立されました。当時は戦乱の世、西向上人という方が、武士の身分をすて、仏門に帰依し、民衆のために念仏道場を開いたとされています」。 閑栖寺には、三井寺再興の祖、智証大師坐像があるという。ご住職にお願いして特別に拝観させていただく。 この像の厨子裏面には、享保十三年(一七二八)に三井寺の金乗院敬祐の発願によって、村人の安穏と五穀豊穣を願って造立されたことが記されている。 また、大師像の台座は、横木の人々の浄財を集めて寄付されており、村人によって大切に守られてきたことがわかる。 閑栖寺は、浄土真宗大谷派の寺院である。ご住職は「どのような経緯で当寺に智証大師像が安置されたのかは分かりませんが、昔から当寺にお祀りし、地元の人々が参っていたもので、当地の住人たちの三井寺への信仰の篤さを物語っていたことだけは確かだったでしょう」と話された。 藤尾は、自然の地形から見ても京都と思われることが多い。それでも大津市に属している理由は、明治を迎えるまで三井寺の寺領であった歴史があるからである。このことは今も残る史跡が何よりも雄弁に物語っている。 << 「歴史散歩」 >>
・「歴史散歩」に戻る ・「三井寺について」に戻る |