その(1) 紫式部「源氏物語」と三井寺
逢坂の関
源氏物語が世に出て千年……。紫式部にゆかりのある京都・大津などで、「源氏物語千年紀」というイベントが行われている。大津市では、特に式部が源氏物語を書き記したという石山寺を中心に、多くの源氏物語ファンが訪れ賑わっている。
特に口語訳「源氏物語」全十巻を完成された瀬戸内寂聴さんの講演会は、多くの聴衆者を魅了した。
源氏物語千年紀、この機会に紫式部が歩いた場所を、逢坂の関を基点に歩いてみる。
東山、東海、北陸の三道が通る近江国の周辺には「三関」と呼ばれる三つの関所が設けられていた。美濃の「不破の関」、伊勢鈴鹿の「鈴鹿の関」、越前敦賀の「愛発の関」で、これらは古代からの関所であった。九世紀初頭に、愛発の関が近江国「逢坂の関」に代えられている。紫式部が活躍していたのは十世紀から十一世紀にかけてだから、すでに逢坂の関は存在していた。
紫式部はこの逢坂の関を、源氏物語の名場面の舞台として書いている。「関屋」の巻に登場する空蝉と、光源氏の再会の場面である。その日、源氏が石山寺に詣でるため、華々しく行列を連ねて逢坂の関へさしかかった時、任期を終えた常陸介の一行も、たまたまその辺りまで帰ってきていた。すでに常陸介の妻となり、任地から同行していた空蝉は、車を降り、木蔭に座って源氏の一行を見送ろうとしていた。
それよりさかのぼること十二年ほど前。色恋に絶対の自信を持っていた源氏は、あらゆる女は自由になると思いこんでいた。空蝉とも無理やり契りを交わしたが、その後二度と空蝉との逢瀬の機会はなかった。空蝉に逃げられ、源氏の自尊心は傷つき拒まれて、いっそう空蝉への恋情がつのるのだった。
源氏はその一行が空蝉たちと知って、十二年ぶりに会う顔見知り、空蝉の弟に伝言をたのむ。「今日はあなたの為に、関まで迎えにきたが、この志を、あなたもおろそかに思われますまい」と、偶然の出逢いをわざとそう言った源氏。利発で聡明な空蝉は、いまだ未練のある源氏の誘いに乗らず、二人が言葉を交わす事はなかった。これがきっかけで、また折々の便りをひそかに交わす仲になる。しかし、空蝉はそれ以上ゆるさず、老いた夫が死亡した後、出家する。
源氏一行は逢坂の関を越え、今の打出浜あたりから舟をしつらえ、瀬田川を下り石山寺へ参る。
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石山寺
石山寺のすぐ前に、千年紀期間中運行されるレトロな観光船、一番丸に乗って多くの観光客がお参りに訪れる。 お土産店がならぶ広場を通りすぎると、三間一戸八脚門の山門がそびえる。その左右に運慶・湛慶の作といわれる仁王像が大きな目を見開いて、睨みをきかせている。
石山寺は聖武天皇の勅願によって良弁僧正(六八九〜七七三)が創建した寺である。そして、天皇はじめ皇族貴族の厚い信仰を受けて栄えていく。平安時代になると時の権力者藤原氏の庇護の元、石山詣は一大ブームを引き起こすのである。
式部の日記や歌集にも石山詣をしたという記述は残っていない。しかし、源氏物語宇治十帖「浮舟」の巻に、石山詣を効果的に使っている。ただし、これは実際に行った描写ではなく、石山詣をする予定がダメになる話である。
浮舟が源氏の子、薫の愛人になり宇治に囲われる。薫は公務が忙しくてめったに浮舟の所にあらわれない。そこへ薫の親友匂宮(源氏の孫)が現れ浮舟に惹かれていく。匂宮は、薫になりすまし、夜おそく宇治にしのんで行き、闇のなかで浮舟とちぎってしまう…。悲劇の発端となるこの事件は、母と乳母に誘われて石山詣を予定していた浮舟の予定を、大きく狂わせる。
石山寺は紫式部が源氏物語を書きはじめたという伝説の残る有名な寺である。本堂の隣には「紫式部源氏の間」がある。王朝貴族の女装束をつけた人形が机を前に座っている。机の上には紙が広げられ、硯があり、人形は筆を持っている。あたかも紫式部がすぐにでも、物語を書き出しそうな雰囲気を呈している。
この事は『石山寺縁起絵巻』にも記されている。また、十四世紀後半に成立した『源氏物語』の注釈書『河海抄』にも………宇津保・竹取やうの古物語は目馴れたれば、新しく作り出して奉るべきよし式部に仰せられければ、石山寺に通夜してこのことを祈り申すに、折りしも八月十五夜の月、湖水にうつりて心の澄みたるままに、物語の風情空に浮かびたるをわすれぬさきとて、仏前にありける大般若の料紙を本尊に申しつけて、まず須磨明石の両巻を書きとどめけり、とある。
紫式部が瀬田川に映る十五夜の月をめで、どんな思いで「須磨・明石」の構想を練ったのか、今では知る由もない。石山寺界隈で繰り広げられている源氏物語千年紀。千年もの時を越え、様々なイベントを通じ、源氏物語が身近なものになったに違いない。境内の奥にある豊浄殿では「紫式部特別展」が開催されている。展示品は紫式部観月図(江戸時代・土佐光起筆)などがあり、訪れる人は後を絶たない。
三井寺
式部の没年についても諸説あるが、長和三(一○一四)年という説が有力である。式部四十二歳の時である。
その二年後、式部の父、藤原為時は七十歳を過ぎて三井寺に出家する。
三井寺は為時・紫式部一家には縁の深い寺で、式部の母の兄弟が三井寺の僧侶になっていた。康延といい、宮中の仏事や天皇の看病に従事する内供奉十禅師に選ばれていた。また、式部の異母兄弟で、為時の息子定暹も三井寺の阿闍梨であった。一条天皇の母、藤原詮子の追善法要や一条天皇の大葬に御前僧として加わるなど著名な僧侶であった。
三井寺に残る「伝法灌頂血脈譜」には長吏、教静の弟子として定暹の名は記されているが、為時の名は見つからない。
為時はかって天皇の宴に招かれたこともある歌人で、式部に文学的な素養を見つけ漢文や詩歌などを教え、式部に多大な影響を与えた。しかし、その娘式部も今はなく、三井寺で失意の日々を過ごす。
金堂、唐院、勧学院などが建つ静かなたたずまいの境内に、為時の痕跡を訪ねるが、無常にも晩秋の冷たい風が吹きぬけるだけであった。
最後に式部が眠る墓所、京都市北区紫野を訪ねる。「堀川北大路」のバス停のすぐそばにある。土塀に囲まれた狭い一画に、平安時代に活躍した歌人小野篁の墓所と並ぶように建っている。
墓碑に寄りそうように咲く紫式部の花が、儚げであった。
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