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その(1) 如意輪観音


観音信仰の成り立ち

観音は、私たちに最も身近で、
慈悲深く慕われている仏である。
観音菩薩とは、古代インドサンスクリット語の
ボーディ=サットバの音訳で、ボーディとは「悟り」、
サットバとは「有情」を表す。

仏教の中でも地蔵尊と並び、抜群の人気と知名度を誇る観音菩薩は、正式には「観世音菩薩」あるいは「観自在菩薩」といい、阿弥陀如来の主宰する極楽浄土へと衆生を導く慈悲の仏として厚く信仰されている。『般若心経』はこの観音菩薩の功徳を説いたものである。

仏教がはじめて公式にわが国に伝来したのは六世紀中頃である。中国は隋による統一以前の南北朝時代、朝鮮半島は高句麗・新羅・百済の三国鼎立という当時の国際情勢にあって、仏教は中国の先進文化そのものであった。北の高句麗と東の新羅の圧迫に苦しみ、他国の援助を期待しなければならなかった百済の聖明王は、熱烈な仏教信者であり、国書とともに釈迦像や経論などを日本へ献じた。
はじめて釈迦像に接した欽明天皇は、その端正な人間の姿をした仏像の輝きに目を奪われた。山や巨木、岩や森など自然物をそのまま神体とする、自然神の系譜を引く日本在来の信仰では、〈カミ〉が人の姿で表現される事はなかったからである。
平安時代になると末法思想が芽吹き、来世は少しでもいいところに生まれ替わりたい、特に地獄に落ちる恐怖からは逃れたいと願うようになる。六道輪廻という考え方である。来世には地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天という迷界があり、それを救う六つの観音がいる。六観音信仰である。六観音信仰は、貴族社会や武家社会など、従来の難しい仏教の教えではなく、庶民にもわかりやすく多くの人々の信仰の対象となった。

地獄界には聖観音、餓鬼界には千手観音、畜生界には馬頭観音、阿修羅界には十一面観音、人界には不空羂索観音、天界には如意輪観音が各々いる。

三井寺には多くの観音像が祀られている。今号では、西国三十三ヶ所札所めぐりで多くの参詣者が訪れる観音堂の如意輪観音について話をすすめる。




善男善女が参詣する観音堂

三井寺観音堂は西国三十三ヶ所札所めぐりの十四番目の札所である。西国札所めぐりについては次号で述べる。

観音堂の秘仏、如意輪観音像(重要文化財)は三井寺再興の祖、智証大師が当山にいた時に現前され、大師自らが礼拝供養して彫刻されたと伝えられている。その創建は古く、延久四(一〇七二)年、後三条天皇の病気平癒を祈願して建立されたという。もとは聖願寺とも正法寺とも呼ばれ、鎌倉時代の「園城寺境内古図」によると、観音堂は長等山山頂近く華ノ谷にあった。この華ノ谷に登るには道は険しく、また女人結界のため女性は参詣ができず、観音のご利益を願う人々からは残念に思われていた。

そして、こんな逸話が残っている。文明九年三月のある夜、三井寺の僧たちに、淋しげな様子の老僧が「自分は華ノ谷に住まう者だが、いまの場所では大悲無辺の誓願を達成できないので、これからは山を下り人々の参詣しやすい地に移り、衆生を利益したい」と夢に現れた。

三井寺の僧たちは相談して、観音堂を山下に移すことにし、文明十三(一四八一)年、現在の地に移されたという。しかし、残念ながら貞亨三(一六八六)年に火災にあい、元禄三年(一六九〇)年再建された。堂内には観音堂再建の様子を描いた「石突きの図」や、「落慶図」など多くの絵馬が奉納されている。

その如意輪観音像の姿は、右膝を立て両足裏を重ねあわせて座り、六本の腕をもつ。丸みのある柔和な表情の顔を右に傾け、右手一手の指の甲を頬にあてられている。その優美な姿に、とりわけ女性の味方として厚く信仰されてきた。

江戸時代になると安藤広重の「大津町杉女」という浮世絵が庶民に伝わり、三井寺観音堂参りがブレークする。

杉女は大津にある商家の下女であつた。どのような因縁によるものか、幼い頃から観音を深く信仰し、毎月三井寺にあるすべての観音に参った。風雨の夜でも欠かすことなく参詣していた。それを主人や下人たちは陰で笑っていた。その頃、大津町では疫病が流行し、一人もこの病にかからない者はないほどであった。すでに家の者も、三、四十人皆この病にかかったが、杉女だけは全く床に臥せることがなかった。このことがあって以来、皆仏力の尊いことを感じて信心した。

また、ある時杉女が天井にある薪をおろそうと梯子を登っていたところ、はるか上のほうから二、三十束の大薪が崩れ落ち、梯子が倒れた。杉女はまっさかさまに石臼の上へ落ち、沢山の薪が落ちたが杉女は少しの怪我もなく助かった。杉女は改めてふところを見たところ、入れた覚えのない如意輪観音の尊像が出てきて、ますます信心を深くしたのである。以来、今日まで多くの人々が如意輪観音と結縁され、四季を通じて巡礼の善男善女が参詣するようになった。

お彼岸に振舞われる赤御飯

三井寺に伝わる春秋の彼岸会は観音堂で行われる。彼岸会には今も多くの人から、精霊供養の申し込みがある。その供養として、三井寺では「赤御飯」を配る。

これは、観音堂を興した後三条天皇が崩御された年、天皇の追悼のため、観音堂で彼岸会を修した際、赤牡丹餅を作って供養としていたのを、江戸時代になってから、あんこの代わりに小豆を入れて「赤御飯」を炊いて参詣の人々に持たせるようになったことに由来している。

この「赤御飯」は一般的に言われている赤飯と同じもので、あらかじめ煮た小豆を一〜二割り混ぜて蒸し、途中で小豆の煮汁を混ぜ込んで赤く染める。

小豆には薬効があるといわれ、また赤い色は邪気を払い、厄除けの力を持つと信じられていて、今も彼岸会など祝い事や特別の行事に使われている。

今年も観音堂の本尊、如意輪観音坐像の前で「赤御飯」を頂ける喜びを、感謝せずにはいられない。



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