その(2) 観音霊場巡り
日本の古代信仰と修験
二〇〇四年七月、「紀伊山地の霊場 と参詣道」がユネスコの世界遺産に登 録された。歴史的な建物や遺跡でない、 日本の宗教的な参詣道が世界遺産の対 象になった事の意味は深い。それは今 もこの道をたどる人々の、宗教的な営 みが現代においても重要な意味を持つ という評価に他ならないからである。
日本では古来より、山には神が宿るとされてきた。現在も、深山の霊性を疑う人はいない。その山を修行の場として、神霊と一体となることを目指した日本独自の自然宗教が仏教伝来以前にあった。それが修験道である。
修験道は、峻険な山を道場として、五穀(粟・稗・麦・豆・米)を断って木食となり、草衣を身にまとい、自らに苦行を課す。窟籠り、禅定、頭蛇、断食断水、不眠不動。究極は、自分の身を焼く焚身、生き埋めになったり、断崖から飛び降りたりして、自然の中に肉体を消滅させてしまうというものである。
それほどの苦行を積み重ねて過去から現世に犯した自己の罪や穢れをあがない、精進潔斎によって山に実在する神霊と交流し、その呪力で病気や災い、凶作などの原因となる災いを滅ぼし、また預言託宣の験力を得ようとした。自分は永遠の人生を生き直し、人々には悟りの境地に導くのである。
修験道は、七世紀末、役小角(役行者)が開いたと言われる。彼は、空を飛んだり、奈良の金峯山と葛城山とに橋を架けたりと、とてつもなく伝説に彩られた人物であるが、呪術を使って民衆を惑わしたとのかどで、文武天皇三(六九九)年に伊豆に流された記録が『続日本紀』に見ることができる。
奈良時代になると、国家仏教として七堂伽藍のなかで政府の保護を受ける学問僧と、日本古来の山岳信仰が外来の道教や仏教の影響を受け、山岳修行により超自然の獲得に努める私度僧があった。役行者もその一人で、その呪術的な力を民衆に示し、自由に布教活動を行い、次第に勢力を増していき、密教に継承され新たな展開をとげた。
天台・真言両宗の密教が比叡山・高野山を開き、山岳修行を奨励したことから金剛・葛城、吉野・大峯・熊野などの各地の霊山に修験者が自らの験力を高めるために入峯した。このような山岳宗教の隆盛にともなって、役行者を修験道の開祖として仰ぐようになった。
葛城修験が大峯修験とともに最盛期を迎えた鎌倉時代前後頃になると、修験道は組織化され、天台系の本山派と真言宗の当山派とに分かれた。熊野は寛治四(一〇九〇)年に三井寺の僧、増誉が白河上皇の熊野御幸の先達を努めたことにより、三井寺に属し、三井寺あるいは上皇から賜った聖護院を本拠とした。これが本山派であり、天台系で役行者を開祖と仰いだ。それに対して、吉野から大峯山にかけては、興福寺などの後盾のもとに、大和を中心とする三十六ケ寺で組織された当山三十六先達があり、室町時代になると真言宗の醍醐寺三宝院を本拠として当山派と称し、聖宝を開祖と仰いだ。また、全国各地の霊山においても組織化がおこってきたが、大和中南部の金剛・葛城、吉野・大峯・熊野は他地方とは一線を画しており、修験道の中枢であった。
巡礼めぐりの成立
三井寺の僧、行尊は百人一首の中に「もろともに哀れと思え山桜 花よりほかに知る人もなし」の歌が採られている人物である。その行尊が長谷寺を第一番とし、御室戸寺を第三十三番として巡拝し『観音霊場三十三所巡礼記』を記している。これが西国三十三所巡礼の始まりである。
その後、同じく三井寺の僧、覚忠が記した『寺門高僧記』には「応保元(一一六一)年正月、三十三所巡礼す。すなわちこれを記す」と明記した上で「一番、紀伊国那智山、本尊如意輪、願主羅形上人……三十三番、山城国御室寺、三井寺末寺に終わる」という巡礼記を残している。これら行尊・覚忠のいずれの場合も、順路は現在と異なっているが、巡拝する寺院は現在と全く同じとなっている。
その覚忠が記した巡礼記によれば七十五日、行尊にいたっては日数百二十日とある。当然のことだが、このように長期の修験的な巡礼に一般庶民が参加するのは困難だった。十四世紀末に書かれた『太平記』の一節に、山伏姿にやつした護良親王の一行が「われわれは三重の滝に七日間打たれ、那智に千日籠って、三十三所巡礼のため参上した山伏だ」といって里人たちを信用させる話があるが、その頃になっても三十三所巡礼といえば、山伏など修験者が行う難行苦行の典型と考えられていた。
ところが、こうした三十三所巡礼の性格は、室町時代の十五世紀中ごろになって大きく変化する。京都五山の僧慧鳳の『竹居清事』は、永亨のころ(一四二九〜四〇)になって、巡礼の人々が道にあいつぐようになったと記し、また寿桂の『幻雲稿』には「武士や庶民で仏に帰依するものは、一度でも三十三所巡礼を行わなければ、一生の恥としている」とある。これら五山の僧の記述から、いままでの修験山伏中心の三十三所巡礼が変化して、地侍・農民・新興の商人層など、観音の利益を求める人々の巡礼参加が始まる。それにつれて、従来の巡礼の修験的性格は変化し、多数を占めるようになった東国出身者に便利なように、順路も覚忠が具現した順路にならうようになった。
東国から海路でまずお伊勢参りをし、次いで熊野三山に参拝し、その後に西国三十三所を巡るルートが確立する。現在と同じように第一番を那智山青岸渡寺とし、最後を美濃の谷汲寺とする順路が一般的になり、満願ののち、信濃の善光寺にお礼参りをすると云う風習も成立した。
西国三十三ヶ所巡礼の旅へ
三井寺観音堂は前号で述べたように、西国十四番目の札所である。本尊は三十三年に一度ご開帳される秘仏如意輪観音で、そのご利益にあずかろうと朱印を求めて、今日も白装束姿の巡礼者で賑わう。
かつて三井寺が厳格な女人禁制の行場であったのに対し、この如意輪観音は一切衆生を済度してくれる、とりわけ女性の味方として多くの崇敬を集めてきた。もともとは、修験の行者たちの勤めの一つであった観音霊場巡り。それが、中世以降、一般の人たちにも普及して、江戸初期には大流行する。その後、さまざまな仏達との縁に結ばれ、東西あちこちに、いくつもの霊場巡りが誕生した。
関東には坂東三十三ヶ所、秩父三十三ヶ所、四国には八十八ヶ所霊場巡りなどの諸巡礼場があり、今も巡礼者の姿が後を絶たない。また、三井寺には様々な薬師如来像を巡る「西国薬師霊場」(第四十八番霊場・水観寺)や近場でお遍路さん気分が味わえる「湖国十一面観音霊場」(第一番札所・微妙寺)が置かれている。
近年になって盛況を呈しているのが、団体バス利用の巡礼である。一般交通機関の利用と異なり、乗り継ぎのめんどうが無く、散在する札所も短時間にほとんど歩かずに廻れるということで、老人や女性の参加者が急増している。このような団体バスでの札所巡りは、かつての長時間かかけての徒歩による巡礼とは趣を異にし、レジャー産業の一環としての名所観光的色彩が強いことは否定できない。
しかし、先立った妻子の遺影を胸に巡礼する人、また人生設計もままならない定年後の老夫婦や、若い人たちの中にも自分の将来に展望が開けず、最初はスタンプラリーのような気分で始めた巡礼の旅が、確かな手応えを与えたという話など、その効用は枚挙にいとまがない。
たとえ物見遊山の旅にせよ、巡拝しているうちに一筋の信仰が芽生えるとすれば、西国三十三ヶ所はなお現代的な意義を失っていない。「いで入るや波間の月を三井寺の 鐘の響きにあくる湖」と御詠歌が流れる観音堂内、朱印を求めて今日も善男善女が列をつくる。
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