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その(3)子供の健やかな成長を地蔵に祈る


地蔵信仰とは

 地蔵のサンスクリット名は、クシチ ガルブハといい、クシチは地を意味し、ガルブハは胎あるいは子宮、包蔵する 意をあらわすので、これを合わせて地蔵と訳す。『地蔵十輪経』は、「よく善根を生ずることは、大地の徳のごとし」 と地蔵の徳をたたえており、この菩薩は大地の徳の象徴と考えられる。地蔵が地下の地獄を救い、冥府の支配者閻 魔と同体とされるのも、みな大地の擬人化によるものであろう。

 こうした大地の徳の擬人化は、バラ モン教の地神プリィヴィーに起源する。『リグ・ヴェーダ』(古代インドの聖 典)は、数多くの神々への讃歌を記すが、その中で、天神と地神に対し「両神は歩むことなく、足なくして、歩み 足あるあまたの胎児を受容せり。肉親の息子を両親の膝に受くるがごとくに、 天地両神よ、われらを怪異より守れ」 と唱っている。こうしたインド古来の信仰が仏教にくみこまれ、大乗仏教のしむ人々を救うのである。ことに六道(地獄道、餓鬼道、畜生道、 修羅道、人道、天道)の中でも最も苦 しみの激しい地獄の救済こそは、地蔵 本願の特色である。十輪経は「地蔵は、あるいは閻魔王、あるいは地獄の獄卒のもろもろの有情になりかわって、人々のために説法する」と記す。また、 本願経は、もともと地蔵の前世は、地獄に堕ちた母を救った孝行なバラモンの女であり、地獄の衆生を解脱させる ことこそ地蔵の本願であると説く。 下で理想的な神格となったのが、地蔵菩薩であったと考えられている。



 地蔵信仰を説く経典の主なものは、『地蔵十輪経』『地蔵本願経』『占察善悪業報経』の三つで、地蔵三経と呼ばれているが、地蔵の利益の特色は、ことに十輪経、本願経によく現れている。地蔵の利益を具体的にみると、十輪経は飲食・衣料・宝飾・医薬が充足し病を 除くと記し、本願経は土地の豊穣・家宅 の永安、長寿で水火の災いもないと記す。多種多様な現世利益もあるが、むしろ利益の特色は、こうした現生益よりも、来世の六道抜苦にあるといえよう。

 両経の説くところによると、地蔵は、釈迦が没して以後、つぎの仏の弥勒が現れるまでの五濁悪世無仏世界の衆生を救うよう、仏に委ねられた菩薩である。それゆえ地蔵は、十輪経が「此土末法の教えなり」と記すように、仏なき末法の世の救い主として、あらゆる場所に身を変えて現れ、六道輪廻に苦しむ人々を救うのである。

 ことに六道(地獄道、餓鬼道、畜生道、 修羅道、人道、天道)の中でも最も苦 しみの激しい地獄の救済こそは、地蔵本願の特色である。十輪経は「地蔵 は、あるいは閻魔王、あるいは地獄の獄卒のもろもろの有情になりかわって、 人々のために説法する」と記す。また、 本願経は、もともと地蔵の前世は、地獄に堕ちた母を救った孝行なバラモンの女であり、地獄の衆生を解脱させることこそ地蔵の本願であると説く。


地蔵信仰と地蔵盆

 滋賀をはじめとして京都・大阪・神 戸・三重そして若狭地方などで盛んな地蔵盆は、地蔵菩薩の縁日(毎月二十四日)であり、また、お盆期間中でもある旧暦七月二十四日の前日、宵縁日を中心とした三日間を地蔵盆として特別にまつる。



 それは、寺院にまつられたものではなく、峠や辻・村境などの道端にあって、悪霊や疫病などを防ぐ神である道祖神信仰と結びついたもので、路傍あるいは街角の辻にまつられた地蔵が対象であった。

 そんな庶民の信仰篤い地蔵とは、六道及び五濁悪世を選んで救済活動に当たるなど、弥勒出現まで活躍する菩薩のひとつである。「我が名を唱える人を、苦から救う」という誓願を立て、梵天、夜叉、狼や閻魔など様々な姿をとって 衆生を導いたといわれる。

 地蔵菩薩とは、六道輪廻に苦しむ人々を救うために、あらゆる場所に身を変えて現れ救済する。なかでも最も苦しみの激しい地獄の救済こそ、地蔵本願の特色であった。

 ここ大津でも地蔵盆の行事が八月二十四日を中心に行われる。特に旧町名の残る古い町は、お年寄りが地蔵の像を洗い清め、新しい前垂れを着せ、供え物をする。

 当日は僧侶の読経や子供向けの法話があり、数珠回しが行われる。これは、 町内の子供が直径二、三メートルの大きな数珠を、読経に合わせて順々に回 すというもので、一番大きな珠(親珠あるいは母珠とも呼ぶ)が回ってくると、願い事を心でとなえ、頭を下げる。 そして、お供えのお菓子や果物をいただく。いまでも夏休みの終わりの、楽 しいイベントである。




地蔵菩薩と三井寺

 三井寺にも多くの地蔵菩薩がまつられている。その一つ、西国三十三ヶ所巡り十四番目の札所、観音堂前の急な石段を降りると、踊り場に小さなお堂がある。「中坂世継地蔵」である。

 文久二(一八一九)年に建てられたもので、寺院建築の遺構として大津市の指定文化財に指定されている。

 江戸時代、なかなか子供が授からない女性が、小さな地蔵菩薩を彫って祈願し奉納した。それが契機になって、たちまち身ごもったという。その話が庶民に広まり、子授け・安産祈願に、いまも毎月二十四日には多くの参詣者が訪れるようになった。

 また、三井寺の本堂、金堂の後陣には、室町時代の作となる地蔵菩薩坐像が安置されている。造像された当初の部分が色濃く残っていて、表面の彩色や細工などの保存状態も良好な地蔵菩薩像である。

 最近、この地蔵菩薩像の調査でX線写真を撮る機会があり、新たな事実が浮かび上がってきた。そのX線写真によると、頭部の底に麻布の布張りが施 されていて、頭部内が空洞状態であることが分かった。いわばカプセル状の空間であり、中に何かが納入されてい るのが写し出されていた。細かい線状のもので、それは遺髪ではないかと思われる影が映っている。

 東京大学が編纂している『大日本史料』第六編の二十九冊に「二十二日、 甲午、幕府、義詮ノ遺髪ヲ地蔵菩薩ノ胎内二安ジ、園城寺唐院二納ム」とある。

 その記述がある大日本史料とは、六 国史以降、国史の編纂事業が行われていないため、その欠落部分を埋めるべ く、年代順に重要史料を掲載したもので、明治三十四年から東京大学史料編 纂所において現在まで刊行が続けられている、日本の根本史料集である。

 先の史料は、三井寺にある地蔵菩薩に、室町幕府二代将軍・足利義詮の遺髪を納め、唐院に奉安したという記録であるが、今回調査された地蔵菩薩坐像が、この像に当る可能性が出てきた。 この推定、三井寺と足利氏の関係を考えると、あながち的の外れた話ではないと思われる。

 なぜなら中世以来、三井寺は源氏の氏寺というべき存在であった。永承六 (一〇五一)年、源頼義が前九年の役に出陣するにあたり、新羅明神に必勝祈願し、平定後、三男義光(新羅三郎)をその氏人として奉じた。また、南北朝の内乱でも北朝・足利氏を支持した ことから、室町幕府の保護を受け、義詮の父足利尊氏は三井寺の鎮守神である新羅善神堂の再建に尽力した。また、義詮は南朝の北畠顕能(あきよし)等が攻め込まぬよう、勢田(瀬田)橋の警護を厳重にするよう、三井寺に命じている。



 勢田橋は琵琶湖から流れ出る瀬田川 にかかる唯一の橋で、「瀬田の唐橋」 として知られている。古来よりこの橋の攻防をめぐって多くの争いが繰りかえされてきた。南北朝から室町時代には、たびたび三井寺に勢田橋警護が命令されており、三井寺は古くから、勢 田橋を維持管理する「橋寺」の役目を果たしていた。

 三井寺と足利氏とのこのような深い関係が示すように、この美しい姿の地蔵菩薩の胎内に、足利二代将軍義詮の遺髪が収められているとすれば、画期的な新発見となることは間違いない。さらなる調査に期待したい。







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