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その(4) 厳しくもやさしい慈悲の不動明王・不動信仰


不動明王とは

 不動明王は、仏教の諸尊のなかでも 観音、地蔵とともに「お不動さん」の 呼び名で親しまれるほど人気の高い存 在である。

 そのサンスクリット名は、アチャラ =ナータで、アチャラとは「動かない もの」、ナータは「守護者」の意味で ある。不動とは、本来は釈迦如来がブ ッダガヤに於いて成道に入る時の瞑想中に、煩悩を振り払う不動の心から採られていると伝えている。密教の根本 尊である大日如来の化身として、その悪魔を降伏するための憤怒の恐ろしい 姿は、全ての障害を打ち砕き、仏道に従わない者を導き救済するという役目を担っている。そこから忿怒の姿の内に秘めた大いなる慈悲の心と智慧の炎で人々の願いをかなえる存在として、特に日本では現世利益をもとめる人々の厚い信仰を集めている。


三井寺の秘仏、金色不動明王像

 三井寺には、現在も多くの不動明王が祀られている。その代表は、なんと言っても黄不動尊(金色不動明王)である。世に京都・青蓮院の青不動、高野山の赤不動とともに「日本三不動」 として知られている。黄不動尊の根本像は、国宝に指定されている画像で、 三井寺の最高の厳儀である伝法潅頂の受者しか拝する事が許されない秘仏中の秘仏となっている。

 黄不動尊は、三井寺の開祖・智証大師円珍(八一四〜八九一年)が二十五歳のときに自ら感得された尊像である。 承和五(八三八)年の冬のこと、比叡山の山中で修行中の智証大師の前に突 如として金色に輝く「金人」が現れ、「われは金色不動明王である。汝を愛念するがゆえに守護するものなり、はやく 仏法の奥義を究めて、迷える衆生を導 きなさい」と告げられたという。文章博士・三善清行の『円珍伝』は、その尊容を「魁偉奇妙(かいいきみょう)にして威光熾盛(いこうしじょう)なり、 手に刀剣を捉り、足は虚空を踏む」と 伝えている。大師はさっそくその姿をとどめ画工に描かせたのが、現在の秘仏・黄不動尊画像である。不動を単独で描いた仏画として現存最古の遺品であり、その価値は宗教史のなかに燦然と輝きを放っている。

黄不動尊は、その後もしばしば大師の前に影現し、大師を守護したという。

入唐求法に出発した仁寿三(八五三) 年には、大師の乗った船が嵐にあい台湾に漂着しそうになったときに黄不動尊が船の舳先に現れ、無事に難を逃れて唐の国に到着することができた。

その後、黄不動尊に対する信仰は、智証大師その人の信仰にとどまること なく宗派をこえて広く信仰されるようになる。ことにその特異な聖性や神秘性から模写、模造も盛んに行われ、やがて不動明王といえば智証大師、三井寺と言われるほど、三井寺は不動信仰の中心寺院となっていく。 日本の不動明王信仰が智証大師に始まると言われる由縁である。




不動尊の修法と鳥羽僧正

 密教の修法とは、三密瑜伽の行と言 われ、行者と本尊が一体となり(入我我入)、その身のままで仏となる(即身成仏)ことで悟りに至るためのの修行法である。弘法大師空海も密教の修法について「処方箋によって薬を調合し、それを服用して病気を除くやり方と同じである。もし病人に向かって病理学や薬学の本をいくら読んで聞かせても、体内の奥深くにある病原を根治することはできない。必ずや病に応じて薬を調合し、処方箋どおりに服用させるべきである」(『性霊集』)と述べ ている。


 平安時代には天皇や貴族たちを中心に神秘性や象徴性に富んだ密教修法への感心が高まり、病気平癒や災難回避などの現世利益をもたらす、いわゆる加持祈祷が盛んに行われるようになる。 『紫式部日記』は、寛弘五(一〇〇八)年七月の藤原道長(九六六〜一〇二七 年)の娘で、一条天皇の皇后となった中宮彰子が、後に後一条天皇となる皇子出産の場面を描いているが、ここに は安産を祈って不動明王を中心とする五大明王(不動・大威徳・降三世・軍 荼利・金剛)を本尊に物怪調伏の祈祷が行われ、勝算、心誉といった三井寺の高僧たちが修法を行っている。

 また、三井寺には、鳥獣戯画で有名な鳥羽僧正覚猷(一〇五三〜一一四〇年)が描いたとされる不動明八大童子像(重文)が伝えられている。この図 像は智証大師が唐より請来した不動尊で、密教図像集『別尊雑記』に記載された智証大師請来の五菩薩五忿恕像の不動像に完全に一致している。緒尊の色彩や表情、ことに掌と足を赤く塗るなど日本の仏画に例をみないのが特色 で、インド、チベットに源流を求められる究めて異色の作風を示している。

鳥羽僧正は、三井寺で天台学や密教を学び、天台座主、三井寺長吏、四天王寺別当などの要職を歴任した高僧で、ことに画業に長じ、三井寺山内の法輪院に住して密教図像の集成と研究、絵仏師の育成に大きな功績を残したことで知られている。




不動明王と修験道

 古来、日本人は山岳を神が宿る場所、 あるいは神そのものとして崇拝してきた。奈良時代になると修験道の祖と称される役行者のように山岳に籠もって修行し、験力を得た異能の人物も現れてくる。ことに平安時代になると、密教の験者たちは競って山岳で修行し、密教の修法に神道や道教の要素も取り入れた修験道の教義をもとに独自の峰入りの作法や呪法を編み出した。彼らは山に伏して修行するところから山伏とも呼ばれた。

 修験者たちが特に多く集まったのは、 紀伊の熊野と大和の金峰山である。熊野を拠点とする修験者たちは、天台寺門宗に属する三井寺派の僧たちであった。ことに三井寺長吏で聖護院門跡を開いた増誉(一〇三二〜一一一六年) が、白河上皇の熊野参詣の先達をつとめ最初の熊野三山検校に任じられて以降は、三井寺派の山伏は本山派と呼ばれる修験道の一大集団へと成長する。

 修験道の基本的な考え方は、修行する山岳を曼荼羅(金剛界・胎蔵界)そのものと捉え、その中心に不動明王が住む聖地があり、その霊力を体得しようとすることにある。もともと不動という言葉は動かない大山をさし、不動明王は山の守護神として修験者の本尊としてふさわしい存在であった。したがって修行に用いる法具(山伏十二道具)も、本尊不動明王の姿と金剛界・胎蔵界の両曼荼羅を象徴している。歌舞伎『勧進帳』の山伏問答で、弁慶が 「それ修験の法といえば胎蔵・金剛の両部を旨とし、峰山悪所を踏み開き…」 と弁じ、「して、山伏のいでたちは」 という富樫の問いに「すなわち、その身を不動明王の尊容にかたどるなり」 と答えて道具の説明をするくだりはあまりにも有名である。


身代わり不動・泣き不動

 三井寺と不動明王の深い関わりを示すものに「泣き不動縁起」がある。

 平安時代の中頃、三井寺に智興という高僧がいた。智興が重病にかかったとき、陰陽師の安部晴明が占ったところ、弟子の中で身代わりをする者がいれば助かるとのことであった。ところが、なかなか身代わりになる弟子が現れないなか、いちばん若い弟子の証空が名乗りを上げる。証空は、年老いた母の元へと帰郷し、その理由を話した。 驚いた母は証空を引きとめようとする。 しかし、師との約束を破るわけにはいかないと、師の元へ戻って行く。自ら身代わりとなって師の病を受けた証空は、病苦に苦しみ、日頃から信仰していた持仏堂の不動明王に祈りを捧げる。 すると不動明王が証空の志を哀れみ、身代わりとなって涙を流して地獄へと引き立てられて行くが、地獄の閻魔大王らは不動明王に礼拝し、不動が白雲に乗って帰還すると智興と証空も助かったという。信心深い弟子の痛みを引 き受けた不動明王の霊験譚は、鴨長明 の『発心集』にも記された著名なもの で、三井寺常住院の「身代わり不動」 あるいは「泣き不動」と呼ばれ、今も語り継がれている。


新発見の不動明王像

 最後に平成二十年から二十一年にか けて開催された「国宝三井寺展」に初出品され、大いに注目された不動明王坐像について紹介しておこう。

 従来は室町時代の不動像であろうと考えられてきたが、新たに調査を行ったところ、後世の修理によって大きく改変されているとはいえ、本来の姿は、その重量感ある体躯や頭体部をわずかに右に振る像容が、東寺の講堂・五大明王中尊像や西院不動堂本尊に近く、いわゆる「弘法大師様」といわれる初期不動明王の図像に則ったもので、平安時代も前期、九世紀から十世紀にさかのぼる古像であることが判明した。

 昨年には、当初の作風にマッチさせ るため、後補の玉眼に紙を貼って彩色で瞳を表現するなどの復元的な修復を実施し、いまでは平安初期の不動明王像の姿がよみがえった。専門家のなかでも本像は、天台宗と真言宗の図像的交流といったテーマを考えさせられる 重要な作例であるとされ、今後のさらなる研究が期待されている。






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