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その(5) 地域社会に根づく不動信仰


山岳信仰と修験道

 日本人は、古来より山や自然そのものを崇拝してきた。身近な自然や自然現象に神秘的力や超越的な存在を認める原始信仰は、やがて仏教とりわけ密教や道教の理論を採り入れ、修験道として確立していく。その修験道の中心的な霊地となったのは、大峰・葛城の両山、熊野三山などであった。ことに白河上皇(一〇五三〜一一二九年)の熊野参詣の先達をつとめた三井寺の長吏・増誉が、熊野三山の検校職に補任されて以後、三井寺派の修験は「本山派」と呼ばれる一大集団へと成長する。

 もともと日本各地には大峰・葛城、熊野のみならず出羽三山をはじめ富士山や御岳山、石鎚山など霊峰があり、それぞれが修験の聖地として信仰されてきた。そうした霊山を修行の場としてきた修験者たちは、中世になると三井寺を根本道場とする「本山派」か、醍醐寺を本山とする真言系の「当山派」かのいずれかの傘下の包摂されるようになる。現在でも三井寺派の修験は、大峰・葛城の両峯修行だけでなく各地の霊山を「国峯道場」と定め、修験者と修行道場の発展を図っている。三井寺のお膝元にある太神山(田上山)もそんな「国峰道場」の一つである。


太神山不動寺

 滋賀県の大津市と甲賀市信楽町に接して聳える田上山は、現在では湖南アルプスの名称で知られ、休日ともなれば多くの登山客が訪れる人気のハイキングコースとなっている。かつては七世紀末の藤原京をはじめ平城京、東大寺また石山寺などの造営に田上山の木材が利用されてきたことが記録され、古代から国家的大事業に際して木材を供給する山として知られていた。こうした度々の森林伐採により田上山は、江戸時代後期には風化浸食が進んだ花崗岩質の山肌がむき出しになるほど木のほとんどない荒れ果てた姿となっていた。江戸時代からも山状を回復するために断続的に対策が講じられてきたが、明治以降になると国の直轄事業として植林・砂防工事が実施され現在に至っている。

 田上山系の主峰が標高五九九メートルの太神山で、山頂に神宿る巨大な岩座があり、田の神と結びついた山の神信仰に根ざした神体山である。

 平安時代には三井寺派の寺院として太神山不動寺が建立されている。その草創縁起によると、貞観元(八五九)年、三井寺の開祖・智証大師円珍が、三井寺造営のための良材を求めていると、はるか南方に紫雲たなびき、夜ごと金の光を放つ峰があった。これを吉兆として山に登ってみると、怪岩奇石が連り、霊山、幽邃の地の様相を呈していた。すると一人の翁が現れ、その言うことには、この峰で大師が来られるのを待っていた。この山中には光を放つ霊木があり、この木で不動明王の像を彫刻し、岩窟に安置すれば無双の霊地となるであろうと告げられた。翁の言葉に従い、大師が不動明王の尊像を彫刻すると、翁は私は実は天照大神である。今より大師の法を加護しようと言い残して姿を消したという。大師は、自ら彫った不動明王の尊像を岩窟に安置し、一寺を建立され、太神山不動寺と名付けられたと伝えている。

 その伝承の通り不動寺の本堂は、山頂の大岩によりかかるように建っており、現在の建物は、南北朝時代の建築とされ、重要文化財に指定されている。広い境内には大師堂、鐘楼など多くの堂舎が並び、山岳寺院の寺観を伝えている。




ハイキング気分で挫折

 JR石山駅から終点の湖南アルプス登山口駅までバスに乗る。天神川沿いに登って不動寺へ。ハイキング気分で取材に出かける。このコースは東海自然歩道になっていて、多くのハイカーたちとすれ違う。「こんにちは」という山独特の挨拶に面食らいながら、場違いな服装・装備(ジーンズにデジカメだけ持参)に一瞬反省。

 舗装された道を、しばらく行くと小さな社が目に止まる。掃除が行き届いた小ざっぱりした社。その社のなかに鎮座しているのが迎不動である。

 まっすぐ垂直に伸びた刀を右手に掲げるその形は不動明王以外に考えられない姿だが、迎不動という案内看板がなければ、ただのお地蔵さんと見間違うほど、作りが素人っぽく、そのあどけない表情は迎不動という名にふさわしいネーミングだと、一人納得する。製作年代、作者いわれなど探してみたがどこにも表示はない。

 迎不動を過ぎてしばらく舗装された林道が続き、それが終わると登山道に入る。不動橋を渡って参道らしき道を歩くが、風化した花崗岩がにょきにょきと山肌に現れ、結構歩き辛く、きつい登り坂が続く。この東海道自然歩道はまさに森林浴そのもので、時折見える視界からは信楽方面の山々、石山・瀬田あたりの住宅地を遠くに望む。迎不動からおよそ二キロ、泣不動尊にようやくたどり着く。日ごろの運動不足を嘆きながら、ひとまずこの登山の安全を祈る。

 泣不動尊は高さ約二・五メートル、幅約二メートルの大きな花崗岩を厚さ三十センチほど彫り込んだもの。その中に燃える盛る火炎光背の不動明王坐像を肉厚彫りで刻み出している。いかめしい不動尊にしては何処となく人懐っこくて優しそう。なぜ、泣不動と呼ばれるようになったのか、文献をみても表情が泣き顔である、としか記されていない。なぜ、泣き顔になったのか知りたいものである。


 しばらく行くと一対の奇妙な石像が迎えてくれる。不動寺山門である。不動明王の脇侍として知られている。左に制多迦童子、右には矜羯羅童子である。なんともユーモラスで艶っぽい表情が今までの疲れを癒してくれる。





願いを護摩木に託す

 太神山不動寺が、総本山三井寺の末寺であることはあまり知られていない。しかし、この田上山を修行の場として定めた智証大師円珍は、自ら彫った不動明王を本尊とし、この地に不動寺を開基した。

 智証大師は幼いころから学才を発揮し神童と呼ばれた。十五歳で比叡山に登り、初代天台座主・義真に入門。十九歳の時に国家公認の正式な僧となった。その後、天台宗の規定に従って十二年籠山行を終えたあと、大峰山や熊野三山を巡って厳しい修行を行ったと伝え、とくに修験道とは深いつながりを持つ。そこから三井寺の教学は、顕教・密教・修験の三道融会ということを重視するようになり、修行法も、これら三道にそってそれぞれの行法がある。なかでも代表的なものは、智証大師流の密教の行と大峯山系を抖する奥駈修行が挙げられる。密教の四度加行は、不動明王を本尊とする行法で、十八道、護摩、胎蔵界、金剛界の四つをいい、これによって僧としての基礎が確立されるという。




 毎年九月二十二日から一週間、太神山不動寺の境内では、不動寺大会式が行われる。智証大師御自作の本尊不動明王のご開帳にあわせて、本堂前で採灯大護摩供が奉修され、京阪神各地から山伏たちが参集する。周辺の信徒たちも開帳期間中に三回行われる護摩供に必ず一度は山に登って参詣し、心願成就や家内安全を護摩木に託して祈願するのが習わしとなっている。

  

この護摩供養は、本来は収穫前の五穀豊穣を祈願するもので、近隣農家の不動信仰が綿々と引き継がれていることを物語っている。また、現在も新米の収穫が終わった十一月の初め、僧侶たちによって托鉢「お初穂」が行われる。近隣農家は言うに及ばず、地域に住むサラリーマン家庭でも、新米や志納品を供し、安穏な生活を不動尊に託すのである。そんな霊山と地域社会との関係がいまも根付いている。



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