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その(1) 織田信長

織田信長の野望
 「織田がこね、羽柴がつきし天下餅、座して食らうは徳川家康」とは、近世日本の幕開けを代表する三人の英雄の歴史的役割を比喩的にいった言葉である。

 特集「戦国武将と三井寺」のトップバッターとして、織田信長の野望と三井寺の関係をひも解いてみよう。

 織田信長は天文三(一五三四)年、織田信秀の嫡男として尾張の那古野(なごや)城に生まれる。天文三年といえば豊臣秀吉より三年、徳川家康より八年先んじることになるが、いずれにしても世は戦国動乱の真っ只中。いつ果てるともなく繰り広げられる勢力争いや内紛で、足利将軍家をはじめ有力守護大名は疲弊し、その実権は在郷の守護代、あるいはその家臣たちに移りつつあった。いわゆる下剋上の時代で、新旧勢力の交代が確実に進んでいた時であった。信長の生まれた当時の尾張も同じような事情であった。本家の織田大和守家(清洲織田家)も内紛によってかつて勢力を失いつつあった。

 信長は天文十五(一五四六)年元服し、三郎信長と称する。そして、翌年には武者初めとして三河の吉良・大浜に出陣、今川方の城を攻め勝利し、武将の嫡男として順調なスタートを切った。天文十七(一五四八)年、父・信秀と敵対していた美濃国の戦国大名・斎藤道三との和睦が成立すると、道三の娘・濃姫と政略結婚する。美濃・尾張の平定を視野に入れた信長の戦略は順調に進んだかに思われた。

 『信長公記』によれば、信長は幼少から青年時にかけて奇妙な行動が多く、周囲から尾張の大うつけと称されていた。信長十七歳の時、父信秀は流行病にかかって四十二歳の若さで亡くなっている。その葬儀の日の信長の行動は、常軌を脱した行動で、今も有名な逸話として語り継がれている。「太刀・脇差を縄で巻いた腰に差し、髪は茶筌で袴もつけないという、まるで鷹狩りにでも行くような服装で、つかつかと仏前に進み、抹香をくわっとつかんで仏前に投げかけた」とある。このような常軌を逸した異常な行動に、教育係を命じられていた家老の平手政秀は、信長を諌めるべく自らの命を絶ったとある。

 織田本家から、武力だけでなく「とりわけ器用の仁」として、信頼されていた信秀の死は、たちまちたががはずれ、尾張は分裂抗争状態になってしまった。激しい同族との争いに勝ち抜き、尾張の統一に成功するまで、信長は苦しい時代を耐えなければならなかった。
頭抜け出す織田信長
 永禄三(一五六〇)年、四万五千の大軍を率いて上洛の途につき、すでに尾張領内に駒を進めていた今川義元を信長は手兵わずか二千、捨て身の奇襲戦法で撃破。桶狭間の戦いで見事勝利する。足利将軍家とは同族の名門で、駿河・遠江の守護を兼ねた今川義元は松平(徳川)氏の三河も手に入れ、上洛実現の最短距離にあった今川義元を破ったのであるから、この一戦を境に、織田信長の名は一躍天下に鳴り響くことになる。

 尾張における信長の地位が一層確かなものになったのは言うまでもないが、それ以上にこの勝利がもたらした大きな成果は、やがて結ばれる徳川家康との同盟関係である。当時、松平元康と名乗った徳川家康は今川義元に属し、この桶狭間の戦いも今川方の武将として参加している。義元敗死後は本拠地の岡崎に帰り自立、なおも義元の子、氏真に再挙をすすめたり、あるいは自ら兵を率いて三河にある信長の属城を攻撃したりしていた。美濃攻略を当面の目標としていた信長は、背面からの脅威をなくすため、家康との和睦が絶対に必要であった。和睦は当然信長側からの申し入れであり、氏真の無能さに愛想をつかしていた家康は信長の申し入れを受け入れ、家康自ら百人ばかりの共を連れて清州城に赴いている。ここに織田・徳川両氏の同盟が成立する。これにより信長は東方からの脅威がなくなり、その全力を西方(畿内)に傾注することが可能になった。

 そして、二人の同盟はその翌年三月、信長の娘と家康の嫡男、信康との婚約が結ばれることで一層強固なものとなった。以後、信長が本能寺で倒れるまでの二十年間、家康は信長の最も忠実な同盟者として、その覇業の推進に大きく寄与した。

 永禄七年には北近江の浅井長政と同盟を結び、信長は妹・お市を輿入れさせ、近江進出の足掛かりとする。信長の野望が着々と進むなか、永禄八年五月、将軍足利義輝が白昼、しかも将軍邸で三好義継、松永久秀らに暗殺されるという大事件が勃発。義輝の弟、一乗院覚慶(のちの十五代将軍足利義昭)は、飛ぶ鳥を落とすが如くの信長に支援をたのみ、将軍職奪取に奔走する。「これからは織田上総介信長をひたすら頼りにしたい」と触れ回り、わずか百日もたたないうちに義昭は、征夷大将軍に就任することができた。
三井寺での出会い
 永禄十一(一五六八)年九月二十六日、『信長公記』によれば、信長は上洛の途次、三井寺に入り、山内の極楽院に陣をひいている。この年、上洛の準備を進めていた信長は、満を持して電光石火の勢いで近江に進撃し、近江源氏の六角・京極の両氏を蹴散らし、同月二十四日には守山まで進出した。翌日に志那と勢田の渡船の都合がつかなく勢田で駐留し、いよいよ二十六日に大津に到着している。

 信長が三井寺に入った翌二十七日、将軍・足利義昭が、信長を追いかけるように琵琶湖を渡り、三井寺に到着し、光浄院に宿泊している。三井寺で合流を果たした信長と義昭は、それぞれの思いを胸に権力の中枢・京都に駒を進めることになる。これを機に天下人へと駆け上る織田信長の時代が本格的に始まったのである。

 その後、元亀二(一五七一)年八月、北近江に出馬した信長は、小谷・山本山両城の中間点に出兵、余呉・木之本方面を焼き払い、柴田勝家、丹羽長秀を率いて一向宗の有力門徒として反抗していた金ケ森城を落城させている。

 さらには九月十二日には、かねてから対立を深めていた天台宗の総本山比叡山延暦寺に対して「根本中堂・三王二十一社をはじめとして、悉く焼き払わるべき」と焼き討ちを命じた。実に社寺堂塔五百余棟が一宇も残らず灰塵に帰し、僧俗男女三千人余が首をはねられたという。世に言う比叡山焼き討ちである。焼き討ち前日の十一日に織田軍は坂本、三井寺周辺にまで進軍し、信長自身は三井寺の山岡景猶の屋敷に本陣を置いたと伝えている。信長は前年十月には三井寺に対し寺領の安堵状を発給しており、比叡山焼き討ちが、中世を通じて延暦寺と敵対関係にあった三井寺を懐柔するという周到な準備を行った上で実行に移されたことが推測される。
天下統一の旗印のもと
 永禄九年、信長は、すでに永禄九(一五六六)年から僧沢彦から与えられた「天下布武」の朱印を使用しており、はやくから天下統一の野望を温めていた。天正三(一五七五)年、権大納言任じられた信長は、さらに征夷大将軍に匹敵する右近衛大将をも兼職する。信長はこの就任にあたり、御所にて公卿たちを集め将軍就任式(陣座)の儀礼を挙行させた。以後、信長の呼び名は「上様」となり、将軍と同等とみなされることになった。

 天正七(一五七九)年、信長の陣頭指揮のもと琵琶湖岸に建設中の安土城が完成した。イエズス会の宣教師フロイスは、その五層七重の壮大な建築物を見て「この構造と堅固さ、財宝と華麗さにおいて、それらはヨーロッパの最も壮大な城に比肩しうるものである」と母国に感嘆の手紙を送っている。

 信長は、岐阜城を信忠に譲り、完成した安土城に移り住んだ。信長はここを拠点に天下統一に邁進することになる。信長は破竹の勢いで全国制覇の兵を各方面に出し連戦連勝。この頃、絶頂期を迎える。天正九(一五八〇)年には京都御所の馬場にて大々的なデモンストレーションも行っている。いわいる京都御馬揃えである。これは正親町天皇の天覧を仰ぎ、織田一門のほか丹羽長秀ら織田軍団の武威を誇示したものである。


敵は本能寺にあり
 天正十(一五八二)年五月十五日、駿河国加増の礼と甲州征伐の戦勝祝いのため、徳川家康が安土城を訪れている。これは家康謀殺のために招いたという説もあるが、信長から接待役を命じられた明智光秀は、十五日から十七日にわたって家康を手厚くもてなしている。家康接待が続くなか信長は、備中・高松城を攻めている羽柴秀吉の使者より援軍の依頼を受けた。信長は光秀の接待役の任を解き、秀吉への援軍に向かうよう命じた。

 同年五月二十九日、信長は中国地方遠征の出兵準備のために上洛し、本能寺に逗留していた。ところが、六月一日夕刻、明智光秀は手勢一万三千を率いて丹波亀山城を発向し京都へと向かった。六月二日未明、桂川を渡った光秀は、「敵は本能寺にあり」と有名な言葉を発し、本能寺を襲った。百人ほどの手勢しか率いていなかった信長は、槍を手に奮闘したが、衆寡敵せず、自らの運命を見定めた信長は、屋敷に火を放ち、燃え盛る炎の中で自害した。

 「人生五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり、一度生を享け、滅せぬもののあるべきか」は織田信長が戦の前に好んで愛誦した「敦盛」の一節である。念願の天下布武を目前にしながら、劇的な最期を遂げた波瀾に満ちた四十九年の生涯は、鮮烈な記憶となって四百数十年後の今日まで生き続けている。



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