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その(3) 徳川家康

京極高次の大津城籠城
浜大津港にある大津城跡 特集「戦国武将と三井寺」もいよいよ三回目。大御所・徳川家康の登場である。織田信長、豊臣秀吉とともに戦国の三傑と称される家康が天下取りを決定づけた関ヶ原の合戦。その前哨戦、東軍の勝利を決定づけたともいえる大津城籠城の攻防戦を見てみよう。

慶長三(一五九八)年八月、豊臣秀吉が伏見城で死去すると政治情勢が急激に動き出す。秀吉生前中から五大老の一人、徳川家康の台頭により合議体制がくずれつつあったなか、翌年に豊臣家を継承した秀頼の補佐役であった前田利家が病死すると、それまで保たれてきた均衡状態が失われてしまう。

家康は、豊臣方に忠誠を誓う有力大名の圧服にのりだす。まず加賀の前田利長、丹後の細川忠興などを押さえ、ついで東国の雄、会津の上杉景勝に働きかける。ところが、景勝が上洛を拒んだため家康は上杉討伐を企てる。

この強引ともいえる出兵は、反家康派の反感を呼び、石田三成を中心に五大老の毛利輝元や宇喜多秀家をはじめ豊臣方に縁の深い諸大名が大阪城に集結することになる。

これに対し、家康の動きも早く慶長五(一六〇〇)年六月十八日には大津城に入り、城主の京極高次と密談している。『京極家譜』には「大津城へ入御、御密談あり」と記されている。ときに高次は、豊臣方か徳川方か、いずれにつくか苦しい立場にあった。高次は豊臣方恩顧の大名であり、正室の常高院(お初)は秀吉の側室・淀君の妹であった。高次の妹・松の丸も秀吉の側室として仕えていた。一方、高次の正室の妹・崇源院は徳川家康の次男・秀忠(二代将軍)の妻となっていた。そんな苦しい状況の中で、高次はとりあえず豊臣方に応じて、加賀の前田討伐に兵を出す。

中堀町という名が残る・市内に残るわずかな城壁

慶長五(一六〇〇)年八月、高次は大津城に一千の兵を残し、二千を率いて出発した。しかし、高次軍は遅々として進まず、二十日間でやっと伊香郡東野(余呉町)についた。この進撃速度に豊臣方が疑問を持ちはじめると、一転、海津から船で湖上を渡り大津城へ帰還した。このときに高次は籠城する覚悟をきめたものと考えられる。

高次による大津籠城は、同年九月四日からはじまった。家臣の妻子をよび、兵糧米の確保のため塩や味噌、醤油なども城内の蔵に入れ、防御を堅固にするために京町口、尾花川口を掘割にした。九月六日の深夜、城下に火を放つ。

船入りがあった川口堀・大津港全景

移築された城門(本要寺・大津市長等) 翌夕方までおよそ十四時間、大津の町は焼け野原と化した。

これに対し、豊臣方の西軍一万五千人の大軍は、逢坂峠を越え、大津城を包囲。西軍は大津城の西南に横たわる長等山の中腹に陣を張り、砲撃を開始する。「板坂ト斉覚書」は近隣在郷の町衆たちが手弁当で見物のため三井寺観音堂に押し寄せたと伝えている。



三井寺観音堂からの眺め(明治30年頃)
 高次は奮戦するも力尽き、ついに大津城を開城してしまう。この攻防戦は豊臣方・西軍の勝利に終わったが、大局的には西軍の敗因にもつながったと いう。なぜなら大津城を開城した日は、まさに関ケ原の戦いの九月十五日当日だったからである。本来なら西軍は、関ヶ原に出兵できた一万五千人の兵力 を大津に置いたまま徳川勢・東軍と対峙することを余儀なくされたからである。ことに家康がその武勇を恐れていた立花宗茂が大津に釘付けにされ、関 ヶ原に参戦できなかったことは、家康にとって幸運であった。結果的には、高次の大津籠城戦は、関ヶ原の戦いの東軍方勝利につながったのである。
関ケ原の合戦
関ヶ原合戦跡 関ケ原の決戦は、九月十五日午前八時頃、東軍方の発砲で戦端を切った。午前十時頃、両軍は一進一退の攻防を繰り広げ、家康は陣を敷いていた桃配山から陣場野に移動、午前十一時頃、戦局がやや優勢とみた三成は、松尾山 に陣を張る小早川秀秋に攻撃を命じた。戦略では小早川軍が東軍を背後から討つ手はずとなっていたのだが、松尾山には何の動きも起こらなかった。

南宮大社(岐阜県垂井町)拝殿(重文) 実は家康は西軍方の大名たちと密かに接触し、小早川からは寝返りの、吉川広家からは主家である毛利軍を釘付けにしておくという密約を得ていたのであった。吉川・毛利は東軍を背後から攻められる位置に陣を構えていたが、この密約によって家康は背後を気にする必要がなくなり、前線の戦いに集中することができた。しかし、東軍に寝返る約束だった小早川は戦局が進んでも全く動こうとせず、とうとう業を煮やした家康は小早川の陣に向かって威嚇射撃で脅しをかける。最終的な決断を遅らせていた秀秋は驚いて重い腰を ようやく上げ、西軍を側面から攻撃。これがきっかけとなり、西軍は雪崩を打つように敗走し、東軍の大勝利に終わったのであった。戦いが終了したのは午後四時頃であった。

島津藩陣地跡・石田三成陣地跡

 合戦の舞台となった関ケ原町には、いまも陣跡が数多く残されている。家康が最後に指揮を執ったといわれる 「徳川家康最後陣跡」、笹尾山にある「石田三成陣跡」、合戦最大の戦いが繰り広げられた決戦地など、いたるところに約四百年前の戦いの記憶が刻まれている。  コ川家康の生涯
「神君出生の城」として神聖視された岡崎城 徳川家康は、天文十一(一五四二)年、三河の国(愛知県)岡崎の城主・松平広忠の嫡男として生まれる。幼名は竹千代といい、幼いころから駿河国(静岡県)の今川氏の人質となり、駿府城で十数年間の人質時代を過ごしている。

 永禄三(一五六〇)年、桶狭間の戦いに今川軍として従軍したが、今川義元討ち死の報を聞き独立を決意。やがて織田信長と同盟を結び、三河の一向一揆を平定し、姓を松平から徳川に改めた。その後、多くの合戦で勝利を納め三河・駿河・遠江・甲斐の諸国を手に入れ、東海一の大大名となった。

 信長の死後、豊臣秀吉の天下統一の戦いでは、小牧・長久手で激突。のちに和解して秀吉の統一事業に協力する。天正十八(一五九〇)年、小田原平定後、秀吉から関東へ移ること命じられ、江戸城を本拠として関東八ケ国の経営にあたり、五大老の筆頭として二百五十石を領有する最有力大名になった。

駿府城(静岡市) 関ヶ原の戦いに勝利して天下の実権を握り、慶長八(一六〇三)年には征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開く。将軍職をわずか二年で子の秀忠に譲った後は、駿府に引退して、大御所と呼ばれていた。

 慶長十九(一六一四)年、大阪の豊臣家へ宣戦布告。翌年の大坂夏の陣を経てついに豊臣家を滅ぼした。元和元(一六一五)年には武家諸法度を制定し、名実ともに徳川家の地位を盤石にした。翌年、七十五歳で病死。遺骸は駿府郊外の久能山に葬られた後、日光の東照宮に改葬された。 徳川家康と三井寺
家康が寄進した三重塔と初層に安置される釈迦三尊像の本尊(重文) 三井寺の境内には、別院の寺や鎮守社をふくめ現在も多くの堂宇が建っている。その中核は金堂と唐院を擁する中院で、なかでも優美な姿を見せるのが三重塔である。慶長二年、豊臣秀吉によって伏見城に移築された大和の世尊寺(比蘇寺)の東塔を、慶長五年に 徳川家康が三井寺に寄進したものである。一層目の須弥壇には、木造・釈迦三尊像が安置されている。室町初期の建立と推定され、重要文化財に指定されている。軒が深く、相輪の水煙などにも中世仏塔の風格をよく伝えている。

 また、三井寺の表門である仁王門も家康の寄進である。もとは湖南市の常楽寺の大門を豊臣秀吉が伏見城に移し、その後、家康が三井寺に移築したものである。

 一説によると、合戦後西軍を破った家康は、ただちに京へ進軍することなく、戦後処理を本丸だけが残った大津城で行っている。大津の有力な米商人たちとの談合を三井寺で行ったものとも言われている。

常楽寺(湖南市)・世尊寺(奈良県大淀町比曽)には東塔の礎石が残る

 三井寺には徳川歴代将軍が発給した朱印状が残されている。三井寺の寺領を安堵するといった内容である。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と為政者の思惑に翻弄されながらも戦国の世を生 き抜いてきた三井寺。徳川家康の寄進などにより伽藍が再興されてから四百有余年。その間、世界史上類を見ない二百五十余年に及ぶ泰平の世をもたら したコ川幕藩体制下で三井寺は安定した時代を迎える。その後、明治維新、太平洋戦争と、大きな変革の時代を乗り越え、現代につながる基礎を築くことができた。

徳川家からの朱印状




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