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葛城の智証大師像

葛城二十八宿の復興

葛城の智証大師像
 平成二十二年(二〇一〇)秋のこと、三井寺の福家俊彦執事長から相談があるとの連絡が入った。その内容は平成二十六年(二〇一四)に迎える智証大師生誕千二百年を記念して昭和五十四年(一九七九)以来途絶えていた葛城二十八宿入峰修行を復興するため行所の調査と行程の立案に協力してほしいとの依頼であった。

 葛城二十八宿とは、世界遺産になった大峯奧駈七十五靡なびきと並ぶ修験道を代表する入峰修行である。修験道の開祖・役行者が法華経八巻二十八品を埋納した経塚があることから二十八宿と呼ばれており、和歌山市加太沖の友ヶ島から大阪と和歌山県境を東西に走る和泉山脈、さらに北上して奈良と大阪県境に聳える金剛山を主峰とする金剛山地の峰々を巡り、大和川中流域の亀が瀬へと至る行場の総称である。

 葛城修験は、明治初年の神仏分離、修験道廃止令により衰退し、経塚や行所の所在が分からなくなったり場所が変わっているという困難な事情があった。そこで何度も現地に足を運び、峰筋に沿って経塚や行所を探尋し、地元の方々への聞き取りも行なった。さらに参考資料を求め博物館や図書館に足繁く通い、移動時間を計りながら行程を決めるなど復興計画を練り上げるまで百数十日に及ぶ日数を費やした。

 平成二十四年(二〇一二)十一月、最初の葛城修行が行なわれることになった。復興に際しては、可能な限り二十八の経塚、行所をすべて巡りたいとの福家執事長の意向を受けて全行程を三分割し、三年間ですべてを歩く計画を立てた。

 一年目は友ヶ島から大福山を経て中津川までの第一経塚から第七経塚、二年目は犬鳴山を出発して和泉葛城、牛滝山を経て岩湧寺までの第八経塚から第十八経塚、結願となる三年目は金剛山や二上山を巡峰する第十九経塚から第二十八経塚までとした。翌年十月には第二回目が実施され、平成二十六年には十月から始まる大法会に先立ち九月十三日から十五日にかけて第三回目が行なわれ、復興の葛城二十八宿巡峰修行は無事に満行を迎えることになった。復興六年目の今年十一月には二回目の全行程満行を果している。

光瀧寺の智証大師像

 相談を受けてから七年余が経過した。この間、修行に同行するとともに時間を割いて行場や行程の見直しのため調査を続けてきた。なかでも忘れ得ぬことは、天台寺門宗の宗祖・智証大師の尊像に出会えたことであった。

光瀧寺の智証大師像、「元禄九年亮玄」の墨書銘がある光瀧寺の智証大師像、「元禄九年亮玄」の墨書銘がある

 葛城二十八宿は、時代の変遷とともに正確な場所が不明な経塚や行所が多い。例えば第十四経塚の仏徳多輪についても南葛城山や福玉山光瀧寺など諸説あり、いまだ確定していない。複数の候補地からどこを第十四経塚に比定すべきか、何度も河内長野市へ向った。そんな折、河内長野市立図書館で閲覧していた「河内滝畑の美術工芸」(河内長野市教育委員会、一九八一年)のなかに元禄九年(一六九六)に光瀧寺亮玄によって造像されたという光瀧寺所蔵の智証大師像が掲載されているのを発見した。

智証大師像との邂逅

 できれば葛城入峰の際に参拝できないかと考え、河内長野市立ふるさと歴史学習館の学芸員・松野准子氏を訪ねた。松野氏は、河内長野市立文化財の森センターの浦秀行氏とともに葛城二十八宿の綿密な現地調査を実施されており、光瀧寺蔵の智証大師像が文化財の森センターで保管されていることを教えていただいた。

 難題の第十四経塚については、松野氏もまだ調査中とのことであった。そこで明治四十六年(一九〇三)の『大阪府誌』に「役小角は葛城山修行の日、亦此に遊化して四十八の瀧及び四十八の岩窟を開眼し、且、法華安樂行品の一品を庭に納めて塚を造り、上に多寶塔を立て側に其の持せし錫杖を植てき」との記事をもとに嘉永六年(一八五三)の『西国三十三所名所図会』に光瀧寺について「古仏来現の宝場、古徳所住の霊地」との解説がなされ、仏と徳を対句にして仏徳多輪を意識していることから光瀧寺を第十四経塚として修行行程に組み込むことにした。

 時間が変動しやすい入峰中のこと、実際に参拝するのは困難な事情があったが、地元郷土史会の会長・椋本進氏から文化財の森センターが宿泊可能であることを教えていただき、そこに泊まれば何とか参拝時間を捻出できると考え、河内長野市の許可をとることにした。

岩涌寺の智証大師像

 平成二十五年(二〇一三)十月はじめ、十八日からの入峰に向けた最終確認のため河内長野市のふるさと歴史学習館を訪れた。資料アルバムに目を通していると、岩涌寺で撮影された一枚の写真が目にとまった。智証大師の金剛名「智慧金剛」と墨書された像底写真も掲載されており、まぎれもなく智証大師の尊像であった。光瀧寺の他にも智証大師像があったのである。さっそく同館の松野氏に尋ねところ、十月十日に岩涌寺の開帳が行なわれるので、そのときに確認できるのではとの由。もし岩湧寺に智証大師像が安置されていれば、入峰が迫っているとはいえ光瀧寺とともに入峰中に参拝できないだろうかと十日を待って岩涌寺へと向った。

岩湧寺本堂に安置されている智証大師像岩湧寺本堂に安置されている智証大師像

 岩湧寺に着くと日頃から葛城二十八宿について様々な教示をいただいている犬鳴山七宝瀧寺の膾谷健眞師と偶然にもお出会いすることができた。膾谷師は三井寺の入峰を総代の方々に知らせるために来られたとのことで、さっそく総代の方々に挨拶をして本堂に上がらせていただいた。堂内の須弥壇中央に本尊の観音像、右脇に役行者像がまつられ、その左脇をみると、はたして写真でみた智証大師像が安置されていた。膾谷師とともに智証大師を宗祖と仰ぐ三井寺の入峰について説明したところ、入峰八日前という急な話にもかかわらず、総代の市原将弘氏が特別に開帳してくださることになった。

本山派修験寺院と大師像の背景

 湧出山岩涌寺と福玉山光瀧寺は、現在は融通念仏宗に属しているが、明治期まで三井寺を本山とする本山派修験に属しており、若王子の末寺であった。

 岩涌寺は葛城二十八宿の経塚「柿多輪」とされ、光瀧寺は経塚「仏徳多輪」の候補地の一つである。

 葛城修験の行所としての両寺の記録は、鎌倉時代の「諸山縁起」(日本思想史大系二十『寺社縁起』所収、岩波書店、一九七五年)をはじめ室町時代の「葛城先達峯中勤式廻行記」(山岳宗教史研究叢書十八『修験道史料集U』所収、名著出版、一九八四年)、三井寺良玉による「葛城手日記」(首藤善樹編『大峯葛城嶺入峯日記集』所収、岩田書院、二〇一二年)などにも記されている。これらの史料をみていくと両寺が、修験者の行場あるいは宿坊としての機能を果たしていたことが分かるが、本山派修験にとって特別な役割を担うようになるのは江戸時代以降のことである。

 寛文八年(一六六八)四月十六日、岩涌寺住職の観音院玄心は三井寺において日光院尊栄から伝法潅頂を受けている。岩涌寺から伝法潅頂を受けたのは玄心が初めてで、貞享三年(一六八六)には尊栄に従って葛城に入峰している。この時、中津川行者堂に納められた碑伝があり、現在は和歌山県立博物館に寄託されている(大河内智之「中津川行者堂(極楽寺)の修験道関連史料」『和歌山県立博物館研究紀要』第十八号、二〇一二年)。また、同じ年に若王子晃海が岩涌寺に縦百十一・四センチ、横二十・四センチというの類例の少ない巨大な黒塗の祈祷札(『葛城修験 河内長野をとりまく山々の信仰』河内長野市教育委員会、二〇〇八年)を納めている。

 岩涌寺では、十三年後の元禄十二年(一六九九)にも玄心の弟子・光性坊玄弘が三井寺で勝仙院晃諄より伝法潅頂を受けている。玄心自らも元禄年間に智証大師像を造像し、宝永三年(一七〇六)、宝永五年(一七〇八)と続いて若王子の代僧という立場で葛城入峰を行っている。その後も享保十五年(一七三〇)から文政五年(一八二二)の義湛、天保十二年(一八四一)の玄忍、嘉永二年(一八四九)の純光と江戸時代を通じて若王子の代僧として入峰を行っている。

 また光瀧寺でも、元禄三年(一六九〇)に住職の不動院亮玄が三井寺の法泉院亮海より伝法潅頂を受け、元禄九年(一六九六)には智証大師像を造像している。以後、享保十九年(一七三四)、天保十三年(一八四二)、『向井家文書』による天保十五年(一八四四)の宥厳に至るまで、やはり若王子の代僧として入峰が行なわれている。

 岩涌寺と光瀧寺の両寺は、十八世紀に入ると三井寺で伝法潅頂を受ける僧が現れ、入峰に際しても若王子の代僧としての役割を果すなど本山派修験の総本山である三井寺との関係を深めていく。両寺に智証大師像が造像された背景は、こうした歴史的関係を抜きにしては語れないであろう。

新たなる入峰の歴史

 入峰二年目にあたる平成二十五年(二〇一三)十月十八日、三井寺を出発した一行は、翌十九日には神野正楽寺、堀越観音を経て、第十四経塚の光瀧寺に参拝した。この日、宿泊先の瀧畑ふるさと文化財の森センターに到着後、同センターの特別の計らいで収蔵庫に保管されていた光瀧寺の智証大師像を全員そろって参拝することが実現した。入峰最終日の二十日早朝には、岩湧寺に前日から泊まり込みで一行の到着を待ち受けていた総代の市原氏の案内を受け、本堂の智証大師像も拝させていただくことができた。

第十三経塚、鎌の多輪第十三経塚、鎌の多輪左端が著者、左から三人目が膾谷健眞師左端が著者、左から三人目が膾谷健眞師
 三年後の平成二十八年の入峰に際しても、岩涌寺総代の市原氏と大江嘉昭氏が早朝にもかかわらず前回と同様に本堂を開けて一行を迎えていただいた。また光瀧寺の智証大師像についても、文化財の森センターの浦氏から連絡をとっていただき、輪奐の美を整えた光瀧寺本堂で参拝させていただくことができた。

 岩涌寺と光瀧寺は、ともにかつては本山派修験の寺として三井寺と法縁浅ならぬ関係にあった。しかし、明治以後の歴史のなかで両寺の宗派も変わり、葛城入峰が途絶えるなか地元の人々が護持してきた智証大師像との結びつきも忘れ去られようとしていた。智証大師生誕千二百年を記念して復興を目指した三井寺の葛城二十八宿修行では、依頼を受けてから各所に足を運び調査を重ね、多くの方々と出会い、理解と協力を得るうちに不思議なことに過去から現在へとつながる法縁が次々と広がり、歴史を乗り越えて智証大師像と天台寺門宗の総本山三井寺がふたたび出会えるに至ったことは、葛城入峰復興のお手伝いをさせていただいた者として感無量の一言に尽きるものがある。








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