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山岳信仰と鬼の伝説生駒山の伝説奈良県と大阪府にまたがる生駒山には、役行者の伝説を伝える地が多く存在している。なかでもよく知られているのが前鬼、後鬼の伝説である。奈良県の北西部に位置する生駒市には、いまも鬼取町という地名が残されている。伝承では、役行者が里人を苦しめていた前鬼、後鬼の夫婦を捕えたと伝え、その地が現在の旧鶴林寺であったという。改心した鬼の夫婦は役行者に従って身の回りの世話をするようになった。この夫婦には五人の子供がいて、子供たちは役行者と修行者の世話をするよう約束し、五鬼と呼ばれるようになった。 鬼の子孫の伝説は各地に伝わるが、葛城、大峯の地では、それぞれ葛城の五鬼、大峯の五鬼として役行者との約束を守り、代々にわたり入峯修行者たちを支えてきたという。 大峯の前鬼深仙灌頂の行われる大峯の中台、深仙の麓に位置する大峯の前鬼(奈良県吉野郡下北山村)には、五鬼熊、五鬼継、五鬼童、五鬼上、五鬼助の五鬼家があった。修験道廃止令が布告された明治期に五鬼上、五鬼熊、五鬼童の三家が前鬼を去り、昭和になって五鬼継家も前鬼を出てしまう。現在では、五鬼助家が小仲坊を守り、入峰修行者を支え続けている。明治三十二年(一八九九)に『修験宗意偈和解』を著した五鬼継義圓氏は、明治四十年(一九〇七)の「峯中日記」(首藤善樹編『大峯葛城嶺入峯日記集』岩田書院史料叢刊六)にも名前が記録されているが、大正十二年(一九二三)八月十九日に亡くなっている(『修験』三、復刻版第一冊、名著出版、一九八二年)。その跡を継いだ五鬼継義孝氏は、五鬼助義行氏と共に釈迦岳山頂の釈迦如来像の台座に名前が残されている。この釈迦如来像は、奧駈修行を行なった水島富三郎と中島市松の両氏が発起人となって大阪仏立会によって大正十三年(一九二四)に建立されたもので、大谷秀一氏が製作され、伝説の強力「オニ雅」こと岡田雅行氏(一八八六〜一九七〇年)によって運び上げられたことで知られている。 五鬼助家は、義行氏亡き後、義憲氏が六十代目を継ぎ、義憲氏が亡くなると「ゴローさん」の呼び名で親しまれた義价氏、その後に義元氏が小仲坊に入り、現在は六十一代目当主として義之氏が修行者や一般の方の世話をされている。 南奥駈道の復興前鬼から奧駈道へと登りつめると「太古の辻」に至る。ここから以南の南奧駈道は、かつて荒廃していたが、この復興に尽力されたのが「奥駈葉衣会」の主宰者・前田勇一氏(一九一三〜八一年)である。昭和四十九年(一九七四)結成された「新宮山彦ぐるーぷ」は、前田氏の志に共鳴された玉岡憲明氏をリーダーに南奥駈道をよみがえらせる活動に邁進され、現在では川島功氏代表のもと持経宿、平治宿、行仙宿をはじめ南奥駈道の維持管理の奉仕活動を活発に続けている。 三井寺が、新宮山彦ぐるーぷのサポートをうけて南奧駈道を通って本宮から吉野に至る順峯修行を復興したのは、昭和五十年(一九七五)五月のことであった。当時の記録によると持経宿の近くで玉岡氏によるメモ付きの救援物資が置いてあったと記され、困難な行程であったことが伝わってくる。昭和五十四年(一九七九)八月五日には、持経宿で不動明王像の開眼供養が行なわれている。この不動明王像は、前田氏の依頼で彫刻家の水島弘一氏が製作された。弘一氏は前の水島富三郎氏のご子息で、奈良や木津川で数々の素晴らしい作品を生みだされている。 葛城の中津川葛城の五鬼家は、西野、亀岡、中川、前阪、中井の五家で、代々にわたり中津川(和歌山県紀の川市)で入峰修行を支え、現在も年二回、行者講という会合がもたれている。中津川は、葛城の中台と呼ばれ、葛城灌頂が行なわれる重要な場所である。ここには三井寺や聖護院、高野山などの碑伝が納められており、最大のものは聖護院雄仁親王と院家の若王子雄巖、住心院雄真の名が記された嘉永二年(一八四九)の碑伝である。なかでも最古のものは、慶長十三年(一六〇八)に三井寺の玉林坊が入峯したときのもので(大河内智之『中津川行者堂(極楽寺)の関連資料』和歌山県立博物館研究紀要第十八号)、この行者堂にあった碑伝を嘉永七年(一八五四)に上州長見寺の智則が書写した「夷狄退攘御祈祷旅中日記」(群馬県立文書館)によると玉林坊の名は暹公であることがわかる。「葛城手日記」(首藤善樹編前掲書)と照合すると聖護院院家の積善院尊雅が粟島(淡嶋)神社で手日記を写す前に暹公が写し終え、中津川に碑伝を納めたと思われる。 智則は、この他にも天正十一年(一五八三)の三井寺霊鷲院静覚、天正十四年(一五八四)の三井寺大禅坊光運が納めた碑伝など多くの碑伝を書き写しており、失われた葛城入峯の姿が鮮明に浮かび上がる貴重な資料となっている。 葛城の調査中に何度も目を通した「葛城峯中記」は奥書に亮永が鎮永の記録を検したものであると記されているが、その千勝院鎮永が慶長年間に納めた碑伝が書き写されていたことには最も感動を覚えた。鎮永の碑伝は二枚写され、四国遍路や三十三所巡礼も行っていたことがわかる。残念なことに鎮永の碑伝そのものは失われているが、智則が入峯した嘉永七年の碑伝は和歌山県立博物館に保管されている。智則が阿遮羅院仏海より「錦森秘鑑」(聖護院門跡所蔵)を借りて書写したものも群馬県立文書館には保管されており、智則という修行者の熱意が窺える。 前鬼の思い出紀の川市の粉河祭では、五鬼家の方々が産土神社を出発する二台の神輿を各々八名で護って歩く「禰宜渡り」という神事が行なわれている。亀岡重臣氏からは、この祭礼で履かれる八ッ目の草鞋の編み方を手ほどきしていただいた。また、西野初雄氏には中津川の伝承や行所など多くのことをご教示いただいた。中津川に何度も足を運ぶうちに西野氏の希望で大峯の前鬼へ五鬼助義之氏を訪ねるお手伝いをすることになった。平成二十五年(二〇一三)九月十四日、亀岡氏と西野氏と共に前鬼に向かった。西野氏の高校時代の恩師で粉河町史の編纂等にも携わった岩鶴敏治氏も同行された。そして、ついに大峯と葛城の五鬼の子孫の方々の出会いが実現した。夜は激しい雷雨であったが、話は大いに盛り上がり、楽しい時間を持つことができた。 平成二十九年(二〇一七)、聖護院門跡を訪ねた際、応接室に飾られた絵皿について宮城泰年ご門主にお訊ねしたところ、はたして日頃からお世話になっている芸術家の水島石根先生の作品であった。水島先生は水島弘一氏の長男である。ご門主からも前鬼にまつわるお話を拝聴しながら水島先生の絵皿を眺めると大峯奧駈道を通じて釈迦岳の水島富三郎氏から持経宿不動明王像の弘一氏、そして石根氏へと連なる不思議な法縁を実感した。 文化の母胎鬼にまつわる伝説や歴史は魅力的なものばかりであるが、能楽の「谷行」もその一つである。入峯中に動けなくなった稚児が定法に従い谷底に落とされるが役行者に仕える鬼が助けるという演目で、葛城の懺法ヶ嶽が舞台といわれている。 平成二十八年(二〇一六)六月七日、金剛流能楽師の宇高竜成師と懺法ヶ嶽を訪れた後、中津川にも赴き、西野氏のご案内で行者堂などを参拝した。この日、宇高師の真剣な眼差しに接し、歴史と伝説に彩られた峯は、まさに芸術の源であることを実感した。 私たちにとって山々は、人々の生活の営みを支えてきただけでなく、山岳信仰はもとより鬼の伝説をはじめ歴史や芸術など日本文化の根幹を形成してきた。現代社会が山の生活や文化を大切に次世代に引き継ぎ、ことに修行者をはじめ多くの人々が歩き続けることを通じて、新たな歴史が生まれ続けていくことを願っている。 ・「教義の紹介」に戻る |